秋の日本民家園(17) - 秋の日本民家園_2014_Nov
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秋の日本民家園(17)

18.蚕影山祠堂(こかげさんしどう)
前回は工事中で全く様子を窺い知ることができなかった。興味津々見たのだが、想像以上に格好が良かった。
正面から見た様子
見えているのは覆堂(さやどう)に当たる部分。覆堂といえば、横浜市の三渓園に国指定重要文化財の『旧天瑞寺寿塔覆堂』がある。向こうは、豊臣秀吉が母のために建てた寿塔を覆うための建物なので敵うはずもないのだが、こちらもなかなかの威風を誇る。
正面から見た様子
覆堂内部の様子
覆堂の厳しさではなく、こちらこそ、養蚕の神「蚕影山大権現(こかげさんだいごんげん)」を祭った宮殿(くうでん)で、意味あるもの。徒や疎かに考えてはいけないのだろう
覆堂内部の様子
「鷹」の場面の彫刻のイラスト
「鷹」の場面の彫刻のイラスト
「舟」の場面の彫刻のイラスト
「舟」の場面の彫刻のイラスト
側面から見た様子
小さいながら芝棟がしつらえてあり、イチハツが植えられていた。
側面から見た様子

川崎市重要歴史記念物
 旧所在地:神奈川県川崎市麻生区岡上 東光院内
 建物区分:宮殿および覆堂
 覆堂=正面入母屋造、背面寄棟造、茅葺、桁行4.6m、梁行2.7m
 建築年代:文久三年(1863)、宮殿棟札
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養蚕信仰を今に伝えるお堂
この建物は川崎市麻生区の東光院境内にあったもので、養蚕(ようさん)の神「蚕影山大権現(こかげさんだいごんげん)」を祭った宮殿(くうでん)と、その覆堂(さやどう)から成っています。覆堂の茅葺屋根は、頂上を土と草で固める芝棟(しばむね)で、春にはイチハツが咲き誇ります。宮殿は正面に唐破風(からはふ)を設けた春日造風の社で、浮き彫りの彫刻を施しているのが特徴です。
中でも注目に値するのは、金色姫(こんじきひめ)伝説を表現した側面の彫刻です。金色姫は天竺(てんじく、現在のインド)に生まれ、四度の大苦難ののち、馬鳴菩薩(めみょうぼさつ)の化身として日本に養蚕を伝えたといいます。この 彫刻は養蚕の起源を説くもので、四度の大苦難は蚕の四回の休眠(食事をせず動かなくなる脱皮前の時期)を象徴しています。
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見どころポイント!
 内部の宮殿の両側面には養蚕の神様である金色姫の苦難の物語、獅子・鷹・舟・庭の4場面が彫刻されています。
 屋根にはイチハツという花が植えてあり、5月には花が咲きます。


19.岩澤家住宅
岩澤家住宅があった清川村は、神奈川県の北部に位置する県内で唯一の村。県内の市町村では最も人口が少ない。宮ヶ瀬ダムのある村で、現在は結構観光でも有名なようだが、昔は本当に山奥の谷あいの村の辺鄙な農村だったことだろう。昔は、炭焼きを中心に、焼畑農業や林業を仕事にしていたというから、相当に生活が厳しかったのではなかろうかと思う。名主の家でも、他の名主の家ほど贅を尽くせなかったのではないかと思うのだが、見た感じは同じようにみえる。もしかしたら、林業で栄えていたのだろうか?
外観
茅葺屋根が撓んでいるように見えて、気になって仕方ないのだが、大丈夫なのだろうか。どうも支えの竹が折れているようだ。豪雪に耐える仕様になっていないようで、ドカ雪でやられたのかもしれない。
大戸口の右側は竹で外側を覆っているようだ。あまり見たことがないものだ。土壁に縦方向の竹を貼ってあるとのこと。

外観
家屋内部の様子
岩澤家住宅の間取り図
岩澤家住宅の間取り図
ダイドコロ
ダイドコロ_1
右手に鎮座するのは、「ホイロ」というお茶作りに使う道具。木枠の底に和紙を張り、火鉢などにかざして海苔・茶などを乾燥させる道具とのこと。手もみの茶を作るのに使ったのだろうか。
ダイドコロ_2
ザシキ
ザシキ
デエとヘヤ
床の間の前身といわれる押板とは、『ヘヤ』の表示の右手のことを言うのだろうか?少し引っ込んだスペースになっていたか、記憶に無い。(^_^;)
デエとヘヤ

神奈川県指定重要文化財
 旧所在地:神奈川県愛甲郡清川村煤ヶ谷
 建物区分:農家(名主の家)
 構造形式:入母屋造、茅葺、桁行14.5m、梁行7.3m
 建築年代:17世紀末期
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茶畑に囲まれた山間の農家
この建物は、名主もつとめた農家の家でした。谷間の斜面に敷地をひらき、江戸時代は炭焼きを中心に、焼畑農業や林業を仕事にしていました。
屋根は、典型的な入母屋造(いりもやづくり)です。間取りは、「ザシキ(居間)」「デエ(座敷)」「ヘヤ(寝室)」からなる広間型三間取りです。しかし、園内に移築された他の神奈川県内の古民家には見られない特徴がいくつかあります。まず、デエの正面を半間後退させ、ここにザシキへの出入口を設けています。また、デエには押板(おしいた、床の間の前身)を備え、ヘヤにはザシキからだけでなくデエからも出入りできるようになっています。
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見どころポイント!
 デエにある押板は床の間の前身といわれ、古い家の特徴の一つです。
 入口右手の道具は「ホイロ」といい、お茶作りに使います。

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岩澤家住宅の旧所在地は丹沢山塊東麓の山あいの地、神奈川県愛甲郡清川村煤ヶ谷である。相模川の支流・小鮎川の段丘上に立地し、名主も勤めた家柄という。現在の主屋の建立年時を示す資料はないが、17世紀末頃と推定されている。屋根は移築前は寄棟造だったが、入母屋造に復原されている。
間取りは神奈川の古民家の主流である広間型3間取で、土間(ダイドコロ)と床上3室からなる。生活の中心であるザシキは桁行2.5間が通例だが、当家は3間で、これは上層農家の格式を示すものである。ザシキの前面2間を格子窓とするのはこの時代の関東の古民家に共通する。デエは客座敷だが、床の間はなく、かわりにヘヤとの境に押板を設ける。県内の古民家では、押板はザシキとヘヤ境のザシキ側に付けられるのが通例だから、この形式は特異である。また土間の妻側に格子窓を設けるのも類例が少ない。主屋表側の外壁はデエの部分だけ半間後退させ、上屋柱筋に建具を入れている。こうした構えは、この半間幅の下屋を客座敷の玄関として扱ったことによるらしい。正面上部の2間とばしの枕梁に製材した木を用い、しかもそれを虹梁に似せたり、あるいはこの枕梁の中央に乗る下屋の繋梁を同じく虹梁型にするのも、客座敷の出入口の格式付けのためだったのだろう。ただ、出入口の装置として不可欠な式台や縁の痕跡は発見されなかったので、座敷から直接外に出る形に復原されているが、おそらく低い置縁のようなものが据えられていたのではないかと思われる。このデエも含め、天井はすべて竹簀子天井で素朴である。
四周の半間幅を下屋とする構造だが、県下に一般的な四方下屋造とは異なっている。通常の四方下屋造ではやはり四周の半間幅を下屋とするものの、上屋柱の立つ位置は下屋柱筋より1間内側である。これに対し、岩澤家では下屋柱筋より半間内側に上屋柱を立てるから、上屋・下屋の違いがきわめて明瞭である。こうした構造は東北地方などに多くみられるが、県内では津久井郡や愛甲郡北部にわずかにみられる古式の構造で、四方下屋造の祖形と考えられている。また、柱がすべて手斧仕上というのも、この時期の民家としては古めかしい。
梁は太く、梁組は豪快だが、虫害等による再用不能の材も多く、移築修理時にかなりの梁が新材に置き換えられている。そのうちザシキ上部の2本の梁行梁は当初材で、一本の木を半割にして使用している。小屋組は通常の扠首構造で、棟束は両妻側から9尺入った位置に2本だけ立てている。
土間周りとヘヤの、外に面する壁は土壁だが、他の外壁は板壁という使い分けも珍しい。土間周りも上部小壁は板壁である。間仕切も同じく板壁である。
以上のように、岩澤家住宅は神奈川の他の地域にはみられないいくつかの特色を有し、また四方下屋造というきわめて整備された構造が形成されてゆく過程を知るうえでも大変貴重な遺構である。

AzTak
Posted by AzTak
投稿 2014年12月02日
最終更新 2014年12月02日

7 Comments

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2014/12/02 (Tue) 07:47

のんびり熊  

AzTakさん

こんにちは
さや堂?なる建物は養蚕,製糸業が盛んだった当地方には見当たらないように思います。
信仰心が足らなかったのかもしれません。
岩澤家、土壁に竹板を貼って有るのは珍しいですね、見たこと有りません。
台所では、茶を蒸したり?揉んだり?したんでしょうか
茶の製造には全く理解がありません。。。
こだわりますが、山林事業で財を成したから板張りの床、なんでしょうか?そうでも無いように思いますが。
昔、飛騨古川の材木商の家に泊めて頂いた時、娘を嫁にだす時は山を二山ほど売ればよい、とおっしゃっていました。
山家の物持ちの桁は随分と違います。

2014/12/02 (Tue) 13:14

makira  

こんにちは!

AzTakさん、こんにちは!
蚕影山祠堂ですが、言われてみれば三渓園に似たようなものが
あったような・・・汗)
↓の川崎市重要歴史記念物の棟持柱の木小屋はまさに掘立小屋!
柱は地面に直接埋める掘立式で掘立て小屋の語源だそうですが、
地面に直接埋めて立てる以外の方法が私には思いつかないのですが・・・?
小屋そのものよりも立て方と言うか構造が重要歴史記念物なんでしょうね♪

2014/12/02 (Tue) 13:24

masa  

こんにちは。

芝棟!昔の人は考えましたね。
萱が朽ちて草が生えたのではなく、土を上げて重さと根で補強するとは。
雨漏りも防げるそうですから、生活の知恵ですね。

2014/12/02 (Tue) 13:35

AzTak  

Re: AzTakさん

> こんにちは

のんびり熊さん、こんばんは。
明3日に備えていつもより早く就寝するために、早めに返信を書かせて頂いています。

> さや堂?なる建物は養蚕,製糸業が盛んだった当地方には見当たらないように思います。
> 信仰心が足らなかったのかもしれません。

本来有難いのは、宮殿の方でしょう。その大事な宮殿が傷まないよう覆いをしたのが覆堂なんでしょうが、人件費等がかなりかかる茅葺屋根がある分、覆堂のほうが大事に扱われてしまっているかもしれませんね。

> 岩澤家、土壁に竹板を貼って有るのは珍しいですね、見たこと有りません。
> 台所では、茶を蒸したり?揉んだり?したんでしょうか
> 茶の製造には全く理解がありません。。。

wikipediaには次のように書かれています。
摘んだ茶の若芽の飲用成分を抽出し易くし、かつ保存性を高めるために、まずこれを数秒から数分間蒸した後、焙炉(ほいろ)と呼ばれる40℃から50℃に加温された台の上で、手で茶葉をほぐす、こねる、揉むなどの作業を行って乾燥させながら煎茶に仕上げてゆく。

> こだわりますが、山林事業で財を成したから板張りの床、なんでしょうか?そうでも無いように思いますが。

板張りにしなかったところは、遠慮の塊で泣く泣くそうしたというのが私の見解です。

> 昔、飛騨古川の材木商の家に泊めて頂いた時、娘を嫁にだす時は山を二山ほど売ればよい、とおっしゃっていました。
> 山家の物持ちの桁は随分と違います。

昔の山林地主はそのくらいの羽振りがあったのでしょうね。

2014/12/02 (Tue) 19:35

AzTak  

Re: こんにちは!

> AzTakさん、こんにちは!

makiraさん、こんばんは。

> 蚕影山祠堂ですが、言われてみれば三渓園に似たようなものが
> あったような・・・汗)

あちらは太閤秀吉の母のために建てた寿塔を覆うための建物で、村の祠堂とは格がまるで違いますが、『覆堂』であるという点では共通していますね。
豊臣秀吉が母のために建てた寿塔を覆うための建物で、現在、秀吉が建てたものと確認できる数少ないものです。 迦陵頻迦(かりょうびんが)や蓮の花などの彫りの深い装飾、そりあがった屋根は、荘厳さを感じさせます。

> ↓の川崎市重要歴史記念物の棟持柱の木小屋はまさに掘立小屋!
> 柱は地面に直接埋める掘立式で掘立て小屋の語源だそうですが、
> 地面に直接埋めて立てる以外の方法が私には思いつかないのですが・・・?
> 小屋そのものよりも立て方と言うか構造が重要歴史記念物なんでしょうね♪

私に聞かないでください。『こんなものを文化財指定とは何か解せない』と思っている一人ですから。(^_^;)

2014/12/02 (Tue) 19:42

AzTak  

Re: こんにちは。

masaさん、こんばんは。

> 芝棟!昔の人は考えましたね。
> 萱が朽ちて草が生えたのではなく、土を上げて重さと根で補強するとは。
> 雨漏りも防げるそうですから、生活の知恵ですね。

そうですね。そんなに降雪がない地域ではこの程度で十分役目を果たせたのでしょう。
まあ、よくぞ考えたものだと感心しちゃいます。

2014/12/02 (Tue) 19:45

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