秋の日本民家園(16)
これが『川崎市重要歴史記念物』と驚く。冒頭に出てきた原家住宅と同じ扱い。単なる掘立小屋じゃないかという気がしてならない。いくら考えても、朴念仁の私には、その価値がよくわからない。


構造説明図

川崎市重要歴史記念物
旧所在地:神奈川県川崎市多摩区生田
建物区分:農家付属建物
構造形式:切妻造、杉皮葺、一面下屋付、桁行3.6m、梁行2.7m
建築年代:大正13年(1924)頃
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堀立ての棟持柱を持つ薪小屋
この建物は、カマドのための薪(たきぎ)や落ち葉などを蓄えておく小屋でした。構造としては二つの点で注目されます。まず一つは、棟持柱(むなもちばしら)を持つ点です。二本の棟持柱が棟木(むなぎ)を受けるとともに屋根を直接支え、屋根の骨組みと柱が一体化しています。もう一つは、柱が掘立式(ほったてしき)である点です。移築前は礎石建(そせきだて)に改められていましたが、もとは地中に約33cm埋められていたことが調査によってわかりました。柱はほとんどがクリの木を使用し、壁は「せっぱ(切端)」と呼ばれるスギ板を打ち付けたものです。
この建物は民家の原初的な構造と通じるものがあり、多摩丘陵の農家にあった付属屋(ふぞくや)の一例としても参考になります。
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見どころポイント!
柱が屋根を直接支え、屋根の骨組みと一体化しています。
柱は地面に直接埋める掘立式です(掘立て小屋の語源)。
17.伊藤家住宅
この住宅は、民家としては神奈川県で最初に重要文化財に指定された。この家の保存運動をきっかけに誕生したのが日本民家園だそうだ。
先に取り上げた『北村家住宅』と同様に国指定重要文化財で竹簀子の床である。旧所在地も北村家は神奈川県秦野市、伊藤家は神奈川県川崎市麻生区。小田急線に沿って至近距離。この辺は、『竹簀子の床』の文化圏だったのだろうか。
市教育委員会の説明文には、現金収入が少なかったので手近にある材料で床を作ったとある。確かに一般の農家ではそうなのだろう。しかし、見た通り、この家屋は、名主を勤めたと伝えられるほどの農家のもの。床を板張りにするだけのお金がなかったとは思えない。それよりかは、『百姓の分際で目立ってはいけない』ということで、わざと目立たないように配慮したのが、大きな理由だったのではなかろうか。
また、『江戸時代中期の中層農家の標準的な遺構として貴重…』とも記載されているが、名主を勤めたと伝えられるほどの農家が中層の農家である訳がない。あまり解説を鵜呑みにできない感じがする。
外観
前に取り上げた清宮家住宅よりは庇が深い感じ。まるで、高級ヨットの舳先のような鋭いフォルムだ。また、いままで見てきた住宅は殆ど正面に向かって右手に大戸口があったと記憶しているが、この住宅は向かって左手にある。何か、そうする理由があったのだろうか?正面の格子窓はシシマド・シシよけ窓などと呼ばれるそうだ。そんなのが入って来たりしたのだろうか?


出入りに便利なようデイの周りの土庇に縁台を置いて使った。土庇とは、地面に柱を立て、深く差しかけた庇をいう。

家屋内部
伊藤家住宅の間取り

ミソベヤ

すわり流しと無双窓と食器棚(前回撮影分)

ドマ
このドマにも囲炉裏がしつらえてあるんだ。その後ろの板床張りのところは、『すわり流し』だ。ここだけは特別に板床張りになっているのは、流石に座る床が竹簀子では足が痛くなってしまうからだろう。

ヒロマとデイ
竹簀子の床だ

ヒロマ

ヘヤ

デイ


国指定重要文化財
旧所在地:神奈川県川崎市麻生区金程
建物区分:農家(名主の家)
構造形式:入母屋造、茅葺、桁行16.4m、梁行9.1m
建築年代:17世紀末期〜18世紀初期
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民家園誕生のきっかけとなった川崎の民家
土間はミソベヤとダイドコロに分かれています。ヒロマ境の一番奥は板の間を張り出して炊事場とし、「すわり流し」 と水がめが置かれています。ヒロマは家の中心となる部屋で、囲炉裏(いろり)の後方は台所、前方は日常生活や接客の場として使われました。ここは竹簀子でできた床です。
ヒロマの上手にはデイ(座敷)とヘヤ(寝室)が続きます。デイは正式な座敷で、出入りには土庇(どびさし)に置いた縁台を使いました。なお、正面の格子窓は「シシよけ窓」などと呼ばれ、関東の古民家に一般的なものです。
なおこの住宅は、民家としては神奈川県で最初に重要文化財に指定されました。この家の保存運動をきっかけに誕生したのが日本民家園です。
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見どころポイント!
正面の格子窓はシシマド・シシよけ窓などと呼ばれます。「シシ」とは獣のことで、狼や猪などを防ぐためのものといわれています。
流しはしゃがんで作業する「すわり流し」という形式です。
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伊藤家住宅は多摩丘陵南西部の橘樹郡金程村(川崎市麻生区金程)の農家で、江戸時代には名主を勤めたと伝える。建築年代を示す資料はないが、17世紀末から18世紀初めごろの建築と推定されている。
県内では多摩丘陵地方に多く分布する入母屋造の草葺屋根で、古民家特有の閉鎖的なたたずまいを見せる。例えばヒロマ前面は、18世紀中期以降の民家ならば縁側を設け、広々と開放されるが、当家の場合は柱間の半分しか開放できない片引戸で、しかも窓である。窓には格子が入り、こうした形式を当地方ではシシマドまたはサマと呼んでいたようである。県下の17世紀末以前の民家に共通してみられる装置である。またデイは前面と側面に縁側を持つが、その奥行きは浅く、縁台を固定したような形である。民家における縁側の発生期の姿を示しているのだろう。そしてデイと外部との仕切りは板戸だけで、障子はない。
当家よりも古い清宮家との外観上の大きな違いは、当家が前面に庇を葺下ろしていることである。これによって深い軒の出が民家特有の陰影に富んだ彫りの深い表情を醸し出し、同時に、後に一般化するヒロマ及びデイ前面の縁側を雨から守るための準備がなされている。
間取りは江戸中期の当地方民家に一般的な広間型三間取だが、デイが12畳もあって、通例よりもかなり広いのが特色である。
ヒロマは丸竹を敷き並べた竹簀子の床である。足ざわりがごつごつするし、風の日には隙間風が吹き上げて、床材としては決して好ましいものではない。しかし、現在とは違って、板材を造るのにはたいへんな手間がかかったから、現金収入の少ない農家では板を購入するのが難しく、屋敷の周辺から無償で手にはいる竹をその代用として使ったのだろう。
デイは唯一畳の敷かれる、最も上等な部屋である。ヒロマや土間は天井がない、あるいはあっても竹簀子天井程度であるのに対し、客座敷であるデイには天井を張り、床の間や違棚をもうけるのが18世紀中期以降の民家の普通の姿である。しかし当家の場合には天井も床の間もなく、より古い時代の様子を伝えている。
寝室であるヘヤは、外部に対して開口部を持たない、きわめて閉鎖的な部屋である。しかしヒロマとの境は通常の引違戸で、清宮家に見られた、敷居を床面よりも一段高い位置に入れる、いわゆる納戸構えの形式よりは新しい。
構造は整った四方下屋造で、棟束を立てず、上屋梁の上に張られた竹簀子天井の上は物置としても使用が可能である。
以上のように、当家は江戸時代中期の中層農家の標準的な遺構として貴重である。