秋の日本民家園(15)
雨で増水した時には、鉄の輪に棒を入れ、担いで避難したとのこと。取るに足らない小屋だが、当時は重要な役目を果たしていたようだ。



運び出す様子のイラスト

22.工藤家住宅
前回は完全に見落としてしまった。その分、今回はしっかり見てきたかったのだが、『床上げ公開』の対象になっておらず、細部は見ることができずじまいだった。もう1回は通わなくてはいけないのかなあ。ドマなどから見た限りでは、囲炉裏はたった一つ。セントラルヒーティングといえば聞こえは良いが、寒くはなかったのだろうか。
見た通りの典型的な南部曲屋。現存する曲屋では最古の一つらしい。曲屋はずっと昔から存在するのかと思っていたが、比較的近世近くになって誕生したものとのこと。その中では最も初期のもの。比較的経過年数が短いのに国指定の重要文化財に指定されたのは、曲屋発生期の素朴で古式な姿をとどめているからなのだろうか。
外観

右奥がザシキで角の手前がシタザシキ

突き出した左端がマヤ

家屋内部
工藤家住宅の間取り

マヤ
何か雑然とした感じに見えたが、昔もこんなふうだったということなのだろうか

ニワとダイドコ
土足でも温まり易いように、ニワのすぐ近くに囲炉裏を設置したようだ。でも囲炉裏があるのはこの間だけなのかなあ。『南部』というと何か暖かいイメージをされるかもしれないが、南部藩のあった土地のことで、実際には相当に寒い土地だったはずだ。夜はグズグズせずに寝るしか無い状況だったと思う。
それと囲炉裏の火は夜間はどうしたのだろうか。気になることだらけだ。

ジョウイとチャノマ
竹簀子の天井さえもない。確かに暖められた空気が隅々まで届きやすいとは思うが、それにしても囲炉裏が少なすぎでは。

カッテノマとジョウイとチャノマ

ザシキ
濡れ縁まである特別な間だったようだ


シタザシキとザシキ
シタザシキは予備の客間だったようだ

ナンド
家族の寝室

小さな小屋
味噌蔵だったのだろうか

国指定重要文化財
旧所在地:岩手県紫波郡紫波町舟久保
建物区分:農家(名主の家)、曲屋
構造形式:寄棟造、茅葺、桁行19.2m、梁行11.1m/南面に馬屋突出、寄棟造、茅葺、桁行7.6m、梁行6.3m
建築年代:宝暦(1751〜1763)頃
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馬と共に暮らした南部の曲屋
主屋の前に馬屋を突出させたL字型の民家は、旧南部藩領(岩手県)に多いことから「南部の曲屋(まがりや)」として知られています。これは、南部馬の飼育が盛んになる江戸時代中期に工夫された形式と考えられます。宝暦頃に建てられた工藤家は現存最古の曲屋の一つといえます。民家園の中で一番敷地面積の広い家です。
主屋には天井がありません。この地方はもともと天井のない家が多く、厳しい冬場は囲炉裏の火で家全体を暖めながらすごしました。ダイドコの囲炉裏はニワからも利用することができます。ダイドコとジョウイは日常生活の場、ナンドは寝室です。ザシキは床の間も備えた特別な部屋で、この広い家で唯一畳が敷かれています。
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見どころポイント!
曲がった部分は馬屋になっていました。
土間境にある囲炉裏は、土足のまま踏み込んで暖まれるようになっていました。
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工藤家住宅の旧所在地は岩手県紫波郡紫波町である。この工藤家の形式でもある「南部の曲屋」は、盛岡を中心とする旧南部藩領という、比較的限られた地域内に分布する特異な民家形式である。L字型の平面を持ち、突出した土間の先端にウマヤを置くが、こうした内厩の形式は北国の民家のものである。特に春の短い東北地方北部では、農耕のためには、牛よりは動きの俊敏な馬を使う方が都合がよかったが、馬は癇が強く、その飼育は牛よりもずっと難しい。そこで厩を屋内に設け、馬の健康状態を常に把握できるようにしたのである。
しかし現在知られている曲屋の形式が誕生したのは意外に新しく、早くとも18世紀前期ごろであろうと考えられている。それ以前はこの地方でも単純な長方形平面の、いわゆる直屋の形式で、古い家ではこれに曲がり部分を増築して曲屋としているのである。そうしたなかで、工藤家は当初から曲屋として造られたものであり、その創建期の18世紀中期は、曲屋としては最も早い時期に属している。時代が降るにしたがって、この曲がりの部分が大きくなり、また屋根の形も入母屋や兜造として意匠を凝らすようになるが、工藤家では厩も小さく、そして単純な寄棟屋根を乗せるのみで、曲屋発生期の素朴で古式な姿をとどめている。
工藤家の間取りはなかなか複雑である。ニワに張り出した、大きな囲炉裏を持つダイドコロと、それに続くジョウイが日常生活の中心で、ナンドは寝室、ザシキは客座敷であったことはわかるが、他の部屋の使われ方はあまり明瞭ではない。例えば、カッテはその呼び名からは炊事関係の部屋のようだが、実際にはダイドコロとのつながりが悪く、むしろ寝室的な造りである。またチャノマも、居間的存在であるジョウイとの関係が曖昧である。シモザシキはその名からはザシキの次の間のようであるが、移築前にはその外に面する部分をクチナンド・ネドコという2室に仕切って寝室として使用していたから、もともと寝間的な部屋であった可能性もある。
建物の外周は土壁だが、内部間仕切には板壁を使う。しかしどの間仕切も内法より上には壁がない。そして天井はどの部屋にも張らないから、家全体がひとつながりの空間のようである。このように、外部に面する開口部を極力少なくするほかは、冬の厳しい寒さへの対処はほとんどなされていない。
平面の寸法は6.3尺を1間にして、梁行には1間、桁行には1.25間(7.87尺)を基準に柱を割り付けている。そして梁行梁もこの柱割にしたがって7.87尺ごとに整然と配られその上に扠首が架けられる。しかし桁行梁は、上屋柱筋のほかには主要な間仕切り位置に置くのみである。主体部は4周の半間を下屋とするが、上屋・下屋境の柱を省略しない箇所も多く、例えばシモザシキやチャノマの内部には独立柱が立つという、古めかしい構造を見せている。
以上のように、工藤家住宅は当初から曲屋として建てられたものとしては最古の部類に属するものであり、また外観や間取りにも古式を残していて、曲屋の発生と展開を考えるうえでたいへん貴重な遺構である。