秋の日本民家園(14)
江戸初期の建築ではないかと推定される、この日本民家園でも最古の古民家だそうだ。しかしながら、私には該当箇所がどこか全くわからないが、後代の改造が激しく、旧状の不明な箇所がかなりあるようだ。そういう事情があるからなのか、神奈川県指定重要文化財にとどまっているようだ。
外観


前回撮影分
芝棟のイチハツが綺麗だった

家屋内部
清宮家の間取り

開口部は南側の大戸口など3箇所のみで、確かに屋内は少し暗いかもしれない


前回撮影分
今回は『床上げ公開』がなされていなかったので、奥の方の撮影ができなかった。前回撮影した分だが、こんな感じだった。



この付属の什器『車長持』は貴重品だ。大火の際に道を塞ぐ結果になってしまい、その時以降は製造を禁止されたものだとのこと。


付属の小屋
古民家時代のものではない


神奈川県指定重要文化財
旧所在地:神奈川県川崎市多摩区登戸
建物区分:農家
構造形式:寄棟造、茅葺、桁行13.6m、梁行8.2m
建築年代:17世紀後期
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棟に花が咲く古い様式の民家
この建物は、当園にほど近い多摩区登戸にありました。
屋根は頂上を土の重さで押さえ、その土が落ちないよう草花が植えてあります。これは「芝棟(しばむね)」と呼ばれ、武蔵国西部の素朴な農家の姿を伝えています。
間取りは、囲炉裏(いろり)のあるヒロマを中心に上手をデエ(座敷)とし、それぞれの裏に寝室と考えられる小部屋を設けています。これは、神奈川県の古式な民家に限られる形式です。また土間の梁には曲がった太い材が使われ、デエとデエドコ(土間)の境は格子で仕切られています。なお、この家はデエドコに勝手口(かってぐち)がありません。これは、家の前の小川に流しが設けられていたためです。
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見どころポイント!
屋根にはイチハツという花が植えてあり、5月には花が咲きます。
園内で一番古いと考えられる家で、非常に閉鎖的な造りです。
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旧清宮家住宅は神奈川県内では屈指の古民家である。あるいは江戸初期まで溯るのではないかとされているが、後代の改造が激しく、旧状の不明な箇所がかなりあるのが惜しまれる。
全体の造り及び外観上の大きな特徴は、きわめて閉鎖的で開口部が極端に少ないこと(逆にいえば壁が多いこと)、そして近世民家特有の縁側がないこと、である。旧所在地(川崎市多摩区登戸)から6kmほど離れた川崎市麻生区金程には17世紀末の建築とされる旧伊藤家住宅(日本民家園に移築)があったから、これと比較してもなお古式と思われる点を次に列挙してみる。
1)津久井郡・三浦郡を除く県内の古民家は、伊藤家を含め広間型3間取が一般的だが、当家は整形4間取であった。この間取りは幕末期に一般化するが、それとの違いは裏側の2室の梁行がわずかに1間しかないこと、そしてヒロマと裏部屋との境の中央に柱が立つこと、さらにこの境に南面する押板を設けること、である。
2)土間とヒロマとの境は、一般には何の仕切りもなく開放的である。一方、伊藤家では4間のうち中央2間に腰壁を立ち上げ、やや閉鎖的である。当家ではさらにこの腰壁の上方に格子を入れ、また後方1間も板壁で塞ぐなど、一段と間仕切を厳重にしている。こうした腰壁と格子による間仕切は江戸初期を降らないとされる関家住宅(重文、横浜市港南区勝田町)に共通する構えである。
3)ヒロマ前面をシシマドと呼ばれる格子窓とするのは17世紀末以前の古民家に共通するが、伊藤家では片壁に板戸と障子を引き込むのに対し、当家では板戸のみで障子はない。これも古風である。
4)土間側からヒロマ境をみると、ヒロマの床を支える根太の木口がそのまま見えるのは素朴で、かつ古めかしい。
5)構造は正統的な四方下屋造に近いが、小屋組の扠首に棟束を併用するのは、この地方ではごく古い時期にのみ見られる手法である。棟束には桁行梁行両方向に小屋貫を通すが、こうした束や貫は小屋裏を利用するためには邪魔な存在であるから、次第に扠首だけで支える構造に変化したのだろう。
6)土間境の柱は他の柱よりもひとまわり太くするのが通常で、伊藤家の場合も例外ではない。これは必ずしも構造的に不可欠というわけではなく、家を立派にみせるための、いわば意匠の面からの要求で、時代が降るにしたがって次第にその太さを増すようになる。しかし、当家の土間境柱は他の柱と同一太さであり、時代の古さを感じさせる。
7)軸部に使用される貫は、床上部では伊藤家の3本に対して2本、土間廻りでは4本に対して3本と、いずれも少ない。貫は柱相互をつないで、礎石の上に立てられる柱を直立させるための部材だから、柱を直接地中に埋め込んで固定してしまう掘立柱構造の場合には不必要だった。したがって貫数の少ない当家の構造は、掘立柱時代の名残とも考えられる。
以上のように、旧清宮家住宅は17世紀中期以前に遡り得る貴重な民家であり、近世民家の発展過程を考える上で欠かせない存在である。
ここから先、番号通りでない取り上げ方をする。見て歩いた順番だ。
23.菅原家住宅
合掌造りの住宅の姿の良さがよく言われるが、こちらの住宅の『ハッポウ造』と呼ばれる独特のフォルムも負けず劣らず美しい。
こちらが神奈川県指定重要文化財にとどまるのは、やはり経過年数の問題なのだろうか。
外観
棟(ぐし…棟とは屋根の頂点部分や屋根と屋根が交わる部分で、雨仕舞いの重要な部分)に三角形に組んだ千木(クラ)を載せることから『グシグラ』と呼ばれる棟飾りが付いている。この屋根棟が珍しいし、美しい。また、妻側の『高ハッポウ』だけでなく、平側にも『ハッポウ』があった。

『ハッポウ造』の象徴である高ハッポウが目立つ


家屋内部
菅原家住宅の間取り

アマヤ


ナヤとモノオキ
間取り図にはそう記載されているが、ナヤと言うよりはウマヤのように見える

モノオキとイナベヤ
イナベヤって何をするところだろうと思ったら、『穀物などを貯蔵するところ』と書かれた説明書きがあった。稲部屋ということなのかな?


ナガシ
トイは栗の木を彫って作った樋で、流しに水を供給するものだったようだ。

おそらく『無双窓』になっていると思われるが、確認未済で今ひとつ自信がない。開放したままでは冬期は寒くて仕事にならなかったと思う。

オメ
食事の準備をしたり食事をしたりする間

シモデ

カミデイ

デイ

神奈川県指定重要文化財
旧所在地:山形県鶴岡市松沢
建物区分:農家(肝煎の家)
構造形式:寄棟造(高ハッポウおよびハッポウ付き)、妻入、一部二階、背面庇付、茅葺、桁行15.8m、梁行9.6m
建築年代:18世紀末期
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屋根に高窓のある豪雪地帯の家
湯殿山麓の田麦俣(たむぎまた)集落やその周辺には、ハッポウ造と呼ばれる独特の民家が分布しています。養蚕のために二層三層をつくり、屋根に高窓(ハッポウ)を設けて採光の工夫をしたその姿は、非常に特徴的です。
菅原家住宅もこのハッポウ造の民家で、高い軒や板壁で囲った外観などに豪雪地域の家づくりがうかがえます。
豪雪は間取りにも影響しています。大戸口前のアマヤ(前室)をはじめ、ニワ(土間)に物置やイナベヤ(板敷)を設ける点などは、雪の多い冬場の暮らしを考慮した工夫です。
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見どころポイント!
雪に濡れたものを脱げるよう、入り口にアマヤを設けています。
積雪時にも立て付けが悪くならないよう、敷居に車が設けてあります。
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古来より霊山としての信仰を集めた出羽三山の湯殿山・月山を東にひかえた、山形県東田川郡朝日村の田麦俣は、美しい外観を持つ「ハッポウ造」民家のふるさととしてよく知られている。菅原家住宅は同じ朝日村だが、田麦俣とは谷ひとつを隔てた大鳥川沿いの松沢に所在していた。同じ村のうちでも、田麦俣の民家とは外観も間取りも異なり、むしろ南に隣接する越後の朝日山麓の民家に親近性を持つといわれる。
菅原家は代々肝煎を勤めたと伝える有力農家で、その主屋は18世紀末頃の建築と推定されている。妻側に設けられた入口の上部2階はセガイで持ち出し、高ハッポウと呼ばれる開口部を設ける形が、この家の外観の最も大きな特徴である。この地方は有数の豪雪地帯で、高ハッポウは積雪時の出入口としても利用したようである。また、屋根の平側にも開口部(ハッポウと呼ぶ)を設け、小屋裏の採光と換気に役立てている。急勾配の屋根の棟上に置かれた、神社の置千木を思わせるようなグシグラも特徴的である。
土間への出入口は妻側に設けられたアマヤの奥に置かれる。アマヤは今でいう風除室、あるいは雪よけのための施設だろう。床上は4室からなり、表(南)にデイ(シモデ)・カミデイの2室の客座敷を置く。田麦俣ではこれらは妻側に置かれるから、両者は異なる系統の間取りである。カミデイは唯一の畳敷の部屋で、床の間の隣りにアミダサマが設けられるのもこの家の特色である。村の人々がここに集まって、大きな数珠をみんなで繰回しながら念仏を唱える、いわゆる百万遍念仏を行ったというから、肝煎という家柄ならではの施設であったのだろう。竿縁天井を張るが、竿縁が床の間に直交する、いわゆる床刺しであるのが珍しい。デイの裏側のオメエはこの家の中心で、大きな囲炉裏の上にはアマダナが設けられ、衣類の乾燥や、食物をいぶして保存するためなどに用いられた。ウーヘヤは寝室で、ここには低い中2階が設けられている。ウーヘヤを除く部屋の天井は高く、デイ及び土間は根太天井、オメエは竹簀子天井である。また壁は土壁を用いず、すべて板壁である。
構造は4周の半間幅を下屋とし、チョーナ梁を用いるのは合掌造と同じである。オメエの上部を除いて板敷の2階が造られ、一部は3階とする。高ハッポウのある妻側2階は床が一段低いが、これは積雪時の出入りを考慮してのことだろう。田麦俣の特徴ある多層民家の形成は、明治期に入って養蚕が盛んになり、そのために必要な床面積を増やすために2階・3階を設け、そしてそこの換気や採光のための開口部が必要となったため、ハッポウや高ハッポウが造られた結果とされている。菅原家も多層民家ではあるが、建立時期は田麦俣のハッポウ造よりも古く、そのため高ハッポウも小さい。平側のハッポウも旧状にならって取り付けられているが、創建時にあったか否かは明らかでない。
以上のように、菅原家住宅は同じ村内でありながら田麦俣の民家とはやや異質な多層民家であり、また高ハッポウを持つ民家としては古く、この地方の養蚕と民家の形式の関係を知るうえで重要な遺構である。