秋の日本民家園(12)
こちらは『作田家住宅』とは違い、明らかに分棟型とわかる佇まい。一体この中で、何をしていたのだろうかと思うほどだだっ広いドマが見学者の度肝を抜く。
国指定重要文化財を打ち上げ花火で燃やしてしまうなんて、とんだ大馬鹿者がいたものだ。茅葺屋根の取り扱いに通じていた職員がいなかったため、表面上鎮火したように見えても、実は鎮火しておらず、再発火で大きな焼損被害になってしまったようである。you-tubeの映像を見た限りでは、主屋は全焼と言っても過言ではない状態。国の重要文化財指定返上を検討しなくればいけないほどの大きな焼損被害。再発させることが無いよう十分な管理をお願いしたい。
外観
南側

南南西側

南東側

分棟の繋ぎ目部分
栗の木の樋が少し朽ちかけていた。取り換えが必要かもしれない。

家屋内部
太田家の間取り

ドマ
かなり広い。片隅にウマヤが2区画分あるが、それでもなお広い。ここでどのような作業を行っていたのだろうか。






ヒロマとザシキ
十分に広いが、ドマには敵わない。形も方形ではなく、変形のもの。これも何故なのだろうか。どうにも気になる。




ザシキ
畳敷きで一応は竹簀子の天井がある立派なもの。撮影した側から直接出入りしたようだ。市の教育委員会の資料には、『天井は竹簀子で、床の間もなく、客間としての形式が整えられていない』と書かれてある。確かにその通りだが、客間にそこまでのしつらえが必要なものだったのだろうか。

国指定重要文化財
旧所在地:茨城県笠間市片庭
建物区分:農家(名主の家)、分棟型
構造形式:主屋=寄棟造、茅葺、桁行9.6m、梁行8.3m/土間=寄棟造、妻入、茅葺、桁行10.0m、梁行8.3m
建築年代:主屋=17世紀後期/土間=18世紀後期
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家の中に雨どいのある二つ屋根の家
この建物は二棟が軒を接して建つ、分棟型(ぶんとうがた)の民家です。大戸口(おおどぐち)を入ると広い空間がひろがっています。ドマの右手がウマヤ、左手が主屋(おもや)です。主屋は日常生活の場であるヒロマ、寝室であるヘヤ、そして畳敷きのザシキに分かれます。ザシキは正式な部屋で、この部屋に客人が訪れる際には土庇(どびさし)が出入口となりました。
広い土間では、雑穀などの農作業も行われていました。
なおこの家には、突出する馬屋(うまや)や囲炉裏(いろり)の位置 など、南部地方の曲屋(まがりや)と類似する点があります。江戸時代後期には茨城県や栃木県でも曲屋が作られており、この家はその影響を受けた分棟型といえます。
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見どころポイント!
家の中に雨どいがある分棟型民家です。といが詰まると家の中に雨水があふれました。
大戸の上に掛けてあるのは、慶応4年に明治政府が出した「五榜の掲示」の一枚です。
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太田家住宅の旧所在地は茨城県笠間市片庭で、近世初頭にはすでにこの地に居住し、また名主の家柄と伝える旧家である。太田家住宅の大きな特徴は、棟方向を別にするふたつの屋根を接続して一軒の家を構成していることである。このような煮炊きをする竈を置く釜屋(土間)と居住部分に、別々に屋根をかける形式は分棟型または釜屋建などと呼ばれ、八丈島や南西諸島などに多く分布することから、かつては南方系の住居形式と考えられてきた。しかし太田家の茨城県中西部、あるいは栃木県宇都宮市の周辺にも昔はこうした家が存在したことが確認されるに及んで、このような解釈は再考を迫られることになった。
太田家の外観は、ひとつの屋根の下に土間も居住部も含む周辺の農家とは大きく相違しているが、間取りは基本的にはそれらとなんら変わるところがない。いわゆる広間型3間取の一種である。土間がかなり広いが、これは土間部分だけ一度建て替えられているからで、解体時の発掘調査によれば、当初の土間は桁行2.5間程度の小さなものであった。
主屋は17世紀末頃の建築、土間は18世紀後期頃と推定されている。
居住部はヒロマとザシキ、ヘヤの3室からなるが、日常生活の中心であるヒロマと土間との間には何の仕切りもなく、ひとつながりの空間である。そしてヒロマ前面を格子窓とするのはこの時期の関東地方の古民家に共通する構えである。ザシキは唯一畳敷の接客間だが、天井は竹簀子で、床の間もなく、客間としての形式が整えられていない。ヘヤは寝室で、ヒロマ側に入口を設けるほかは壁で閉ざされる。
別棟の土間は前面が主屋より前に出ているが、これはこの地方の民家に共通する形である。つまりこの地方では土間の厩の部分が前に出て、全体の平面がL字型になる。いわゆる曲屋の形式が一般的である。太田家の土間が建て替えられた時期には曲屋が一般化していたため、当家でも平面の形状はこれにならったのであろう。
主屋と土間とは年代が違うため、その構造もかなり相違している。例えば、主屋は棟束併用の扠首構造であるのに対し、土間では棟束は用いない。そして主屋では前面の半間を下屋とするため、前面より3尺入った位置に上屋根を立てるというきわめて古式な構法を見せている。また各室境や外周には1間ごとに柱を立て、柱の省略が全く行われていないし、ヘヤの内部には使用上邪魔になるはずの独立柱が2本残されたりしているなど、かなり古風である。これに対し、土間は内部に柱を全く立てないし、また梁行梁を二重に組み、桁行梁との交点は大栓で固定するという、進んだ構法が採られている。
なお、主屋部は土壁だが、土間廻りは板壁である。主屋と土間が接する部分の屋根には大きな谷ができるが、ここには大きな樋を設けて雨水を処理している。
このように太田家は分棟の形式を今に伝える貴重な遺構であり、かつ茨城県のこの種の民家では最も古く、この地方の民家の発展を知るうえで欠かせない存在である。
平成2年7月29日、生田緑地内で打ち上げられた花火が屋根に落下し、主屋のヘヤを中心に焼損したが、復旧修理工事が行われ、平成4年10月31日に竣工した。