増上寺~二天門~御成門~台徳院霊廟惣門_with_東京タワー(5) - 増上寺~二天門~御成門~台徳院霊廟惣門_with_東京タワー_2014_Oct&Nov
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増上寺~二天門~御成門~台徳院霊廟惣門_with_東京タワー(5)

徳川家墓所(3)
旧霊廟で増上寺にあったもの
徳川秀忠(1579年 - 1632年、家康の三男)増上寺 台徳院霊廟…増上寺の南側
現存する建築物
1-1)台徳院霊廟 惣門 [国指定重要文化財]
建立当初は現在地より西寄りにあり、1959年に45メートル東方へ曳家された。入母屋造八脚門で、全体を朱塗とし、装飾的要素のない簡素な門である。徳川家霊廟では、奥にある建物ほど華美な装飾が施されるようになっていた。門内に安置する金剛力士(仁王)像は、もと埼玉県川口市の西福寺にあったもので、1948年に浅草寺に譲渡され、さらに1958年頃に現在の惣門に移された。
これでも装飾性が低いのかなあ
台徳院霊廟 惣門_1
台徳院霊廟 惣門_2
金剛力士像は元々は別の寺のものだったのか。堤さんがそうしたのだろうか?
台徳院霊廟 惣門_3
台徳院霊廟 惣門_4
台徳院霊廟 惣門_5
惣門跡と水路跡
惣門跡
水路跡
以下の3棟は、ホテル建設に際し、埼玉県所沢市の狭山不動尊(西武ドーム前)に移築されている。これらの画像の撮影は出向く機会がなく未済。
1-2)勅額門
1960年に埼玉県所沢市に移築された。切妻造四脚門。
1-3)丁子門
1960年に埼玉県所沢市に移築された。一間平唐門で、北隣の崇源院(秀忠夫人)霊牌所への通用門であった。
1-4)御成門
1960年に埼玉県所沢市に移築された。切妻造妻入で、桁行2間、梁間1間とする。切妻造で妻入(屋根の破風のある側を入口とする)の門は珍しい。内部天井は格天井の中央部を円形の鏡天井とし天人像を描くことから、この門には「天人門」の別称がある。
注)この御成門は、旧台徳院霊廟(増上寺の南側で、江戸城からは遠い位置になる)の御成門であり、将軍が増上寺に入るときに使用した御成門は、これとは別のものと思われる。
焼失した建物で写真等が残っているもの
1-5)左右の水盤
左右の水盤
1-6)奥院中門・玉垣・宝塔覆屋
奥院中門・玉垣・宝塔覆屋

徳川家宣(1662年 - 1712年、家光の三男甲府城主綱重の長男)増上寺 文昭院霊廟…増上寺の北側
 (12代将軍家慶(慎徳院)・14代将軍家茂(昭徳院)・14代将軍家茂正室(静寛院)合祀)
現存する建築物
2-1)旧文昭院霊廟奥院中門
現在の増上寺徳川家墓所入口にある鋳抜門がそれである。残念だが、それ以外には現存するものは残っていない。
旧文昭院霊廟奥院中門
焼失した建物で写真等が残っているもの
2-2)文昭院霊廟勅額門
文昭院霊廟勅額門_表側
文昭院霊廟勅額門(フェリーチェ・ベアト撮影)
2-3) 文昭院霊廟中門(フェリーチェ・ベアト撮影)
文昭院霊廟中門(フェリーチェ・ベアト撮影)
2-4)文昭院霊廟水盤舎(フェリーチェ・ベアト撮影)
文昭院霊廟水盤舎(フェリーチェ・ベアト撮影)

徳川家継(1709年 - 1716年、家宣の四男)増上寺 有章院霊廟…増上寺の北側
 (9代将軍家重(惇信院)合祀)
現存する建築物
3-1)現存する有章院霊廟 二天門 [国指定重要文化財]
門の両脇には、広目天と多聞天が祀られているため二天門と言われます。北廟には、文昭院(6代家宣の法号)の霊廟もあり、その門には、持国天と増長天が祀られていて、2門あわせて仏法を守護する四天王が祀られていました。左が西方を守護する広目天、右が北方を守護する多聞天(別名毘沙門天)です。
柵で仕切られていて、それ以上に近づくことはできない。塗装は随所が剥げ落ち老朽化が激しい。いやしくも黄に指定の重要文化財なのだから、もう少し補修を積極的に行って、取り返しがつかない結果に陥らないようにすべきと思った。四天王を形成するための文昭院霊廟の二天門は残念ながら焼失してしまったようだ。
有章院霊廟二天門_1
有章院霊廟二天門_2
有章院霊廟二天門_3
有章院霊廟二天門_4
有章院霊廟二天門_5
有章院霊廟二天門_6
焼失した建物で写真等が残っているもの
3-2)有章院霊廟
Bjh34_Burial_Taikuns.jpg
747px-Farsari_Shiba.jpg

1720年(享保5年)、吉宗が御霊屋建立禁止令を出した。それ以降大規模な霊廟は建築されず、寛永寺か増上寺のいずれかの霊廟に合祀し、宝塔か霊牌所が建立されたそうだ。

御成門
狭山不動尊に移築された国指定重要文化財の『御成門』とは別物。姿形がまるで違う。あちらは、台徳院霊廟の御成門であり、ここで取り上げる『御成門』は、増上寺の裏門であった御成門である。
裏門の位置づけだったが、将軍が参詣する際に使用されたので『御成門』と呼ばれるようになった。この門は、初めは現在の御成門交差点のところにあったが、明治25年、現在の日比谷通りが建設された際に、現在地に移転された。
関東大震災や戦災をくぐりぬけた貴重な建物。その割には、かなり傷みが激しく、何らかの文化財に指定して、きちんと補修をしたら良いのにと思う。

御成門_1
御成門_2
御成門_3
寄りかかったら倒壊しそうだった
御成門_4
このいい加減な表示は何を意味するのだろうか
御成門_5
御成門_6
AzTak
Posted by AzTak
投稿 2014年11月08日
最終更新 2014年11月08日

8 Comments

There are no comments yet.

makira  

こんばんは!

AzTakさん、こんばんは!
いや~!増上寺って凄いところですね!
徳川家と言うか江戸時代の粋を集めたところですね!
↓の記事をも含めて焼失した霊廟の写真は白黒だからこそ
伝わってくる豪華さがあります。
最後の最後に物凄いお寺に来てしまいましたね!
私にも写真撮影をと仰せですが、ただただ感動ばかりで無理でしょう 汗)
それ以上に写真を撮ってもAzTakさんのように、筋道を立て
詳しい説明はとてもできそうにありません 汗)
ここでじっくり見させていただき、後日カメラなしで行って見たいと思います 笑)

2014/11/08 (Sat) 03:57

みこたん  

こんにちは。

増上寺には行ったことがありますが、これほど凄いところだと思いませんでした、とくに焼失した霊廟の写真はすばらしく良いですね、徳川家の菩提寺だけあって、日光東照宮に負けず劣らずの豪華ですね、権力の大きさを感じさせます。、
一番記憶に残っていたのは、埋葬されているかたがたは、座って刀弓を見につけて江戸を守っておられるとか、東京タワーとともに、印象深く記憶に残っています。

2014/11/08 (Sat) 15:07

dさん  

こんにちは

徳川家の菩提寺ですか、流石に豪華ですねえ

2014/11/08 (Sat) 17:26

のんびり熊  

AzTakさん

こんばんは
仁王様が埼玉からここへどうしてお越しになったんでしょうねえ。
なにかいわくでも有ったんでしょうか?

2014/11/08 (Sat) 19:47

AzTak  

Re: こんばんは!

> AzTakさん、こんばんは!

makiraさん、こんばんは。

> いや~!増上寺って凄いところですね!
> 徳川家と言うか江戸時代の粋を集めたところですね!
> ↓の記事をも含めて焼失した霊廟の写真は白黒だからこそ
> 伝わってくる豪華さがあります。

残しておいて欲しかったです。居ながらにして、歴史探訪ができたはずなのですから。

> 最後の最後に物凄いお寺に来てしまいましたね!
> 私にも写真撮影をと仰せですが、ただただ感動ばかりで無理でしょう 汗)
> それ以上に写真を撮ってもAzTakさんのように、筋道を立て
> 詳しい説明はとてもできそうにありません 汗)
> ここでじっくり見させていただき、後日カメラなしで行って見たいと思います 笑)

普段の時に行くと、あまり感動がないかもしれません。せめて大殿(本堂)に入れればよいのですが、私が行った時は、大きな法要の真っ最中。確認しなかったけれども、その時は立ち入ることができなかったと思います。
普段は大殿内に立ち入ることができるようで、写真も僧侶の写真を撮らなければOKのようです。

2014/11/08 (Sat) 22:07

AzTak  

Re: こんにちは。

みこたんさん、こんばんは。

> 増上寺には行ったことがありますが、これほど凄いところだと思いませんでした、とくに焼失した霊廟の写真はすばらしく良いですね、徳川家の菩提寺だけあって、日光東照宮に負けず劣らずの豪華ですね、権力の大きさを感じさせます。

あとで調べてみて、本当にそういう感じがしました。霊廟がことごとく灰燼に帰したことが残念でなりません。

> 一番記憶に残っていたのは、埋葬されているかたがたは、座って刀弓を身につけて江戸を守っておられるとか、東京タワーとともに、印象深く記憶に残っています。

刀弓を身につけていたとは知りませんでした。
発掘調査した時の内容は本にまとめられているようですが、触りは次のURLで知ることができます。
http://www.elph-studio.com/shougun.html

2014/11/08 (Sat) 22:43

AzTak  

Re: こんにちは

dさんさま、こんばんは。

> 徳川家の菩提寺ですか、流石に豪華ですねえ

そうですね。8代将軍吉宗以前の頃までは、徳川幕府に勢いがあり、資金も豊富にあったんでしょうかね。それはそれは豪勢なものだったようですね。
それでも、其のような資金は各藩が負担を強いられることだったのでしょう。聡明な吉宗は、各藩の財政の逼迫ぶりを承知していたのか、其のような理由で霊廟建設を禁じたのかもしれませんね。

2014/11/08 (Sat) 22:50

AzTak  

Re: AzTakさん

> こんばんは

のんびり熊さん、こんばんは。

> 仁王様が埼玉からここへどうしてお越しになったんでしょうねえ。
> なにかいわくでも有ったんでしょうか?

よくわかりません。
ですが、鎌倉の大仏様を見に行った時、仁王門に仁王様がいなかったんです。何でも修理中だったようでが、非常に寂しい感じがしました。
ここでもそんなふうに思ったのか、収まりの良い仁王像の出物を探していたのではないかな、などと勝手に想像しています。あくまでも、個人の想像でしかありません。(^_^;)

2014/11/08 (Sat) 22:56

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