浦賀の幕末前後の遺跡を回る(1) - 浦賀の幕末前後の遺跡を回る_2014_Sep&Oct
FC2ブログ

浦賀の幕末前後の遺跡を回る(1)

浦賀駅から東叶神社に行き、渡船で対岸に渡り、西叶神社、愛宕山公園、陸軍桟橋、燈明堂跡を回る計画を立てた。
『開国の足跡を辿る、歴史散策』という神奈川県の案内記事が目に止まったので、これに乗ったのだった。
なお、西浦賀には三浦の善吉らの『鏝絵』の作品が残っている。これらは、最初に歩いた時は見逃してしまったので、後日仕切りなおして、こちらも見てきた。これもあわせて取り上げることにする。

東浦賀(1)
浦賀駅から徒歩で東叶神社に向かう
徒歩で約20分という案内。大体そのくらいの時間がかかった。地図の赤い線に沿ってまずは歩き始めた。
案内図
途中にこんな事務所があった。今でも使用しているのかはよくわからなかった。
途中にこんな事務所があった_1
途中にこんな事務所があった_2
徳田屋跡
写真は跡地に建つ上原家の家屋。旅館は関東大震災で倒壊してしまったそうだ。
跡地に建つ上原家の家屋
跡地であることを示す標柱と表示板
標柱には『吉田松蔭・佐久間象山 相会処(徳田屋跡)』と書かれてあった。
標柱と表示板_1
標柱と表示板_2
イラストによればこんなふうだったようだ
イラスト
浦賀が江戸湾防衛の最前線になると、それまでの商人や文化人に加えて、 各藩の武士も浦賀の町を訪れるようになりました。
商人や文化人は、親類縁者を頼って宿泊し、各藩でも浦賀の商人と取引のあるところは、そこを頼りに宿をとりました。
では、親類も縁者もいない人はどこへ泊まったのでしょうか。
浦賀は宿場ではなかったので、船乗り以外の旅人を宿泊させることは原則として禁止されていました。しかし、身元の確かな人(通行手形などを所持している人)は、村名主のところに頼むと泊まれる家を紹介してくれ、そこに宿泊することが許されました。浦賀を訪れる人が少ないうちは、この方法で対応できましたが、数が増えてくると対応が困難になりました。
そこで登場したのが、幕府の許可を得た旅籠でした。
文化8年(1811)3月に、初めて東浦賀に3軒の旅籠が許可されました。
なお、西浦賀の記録はありませんが、同時期に許可されたものと考えられます。江戸時代後期から明治時代にかけて、浦賀で旅館の話をするときに忘れることのできない代表的なものは、東浦賀の徳田屋と、西浦賀の吉川屋です。
浦賀の旅籠の草分けである徳田屋には、多くの武士や文化人が宿泊したことがわかっています。それは旅人自身の日記などから知れることで、徳田屋の宿帳が現存していたならば、その「宿帳」だけで浦賀の文化史を語ることができたのでしょう。明治の元勲を多く輩出した「松下村塾」の塾頭である吉田松陰は、その日記に、ペリ-来航時の対応策について、徳田屋の主人からの情報をもとにして、師の佐久間象山らと協議したことを残しています。今回の黒船来航では、2年前の見聞で、日本側の防備の実情を知っているだけに、手の施しようのない状況をしきりに残念がり佐久間象山やその門下生たちと、今後の日本のとるべき方向などを語り、議論百出した様子を記しています。
このように、歴史の表舞台にも登場する徳田屋ではありましたが、万延元年(1860)の桜田門外の事件に関しては、苦い思い出もあります。井伊大老を殺害した水戸藩士の残党が立ち回るおそれがあるので、どの旅籠でも、奉行所の役人が来て、宿泊人全員の厳重な取り調べを行う手はずになっていました。その日、徳田屋に泊まった房総からの7人の客を「明朝の取り調べが済むまで止めておくように」と指示を受けていたにもかかわらず、理由は明らかではないが、なぜか出発させてしまい、奉行所から厳重な注意を受けました。
当時、徳田屋では番所の「船改め」を受けずに、房総半島へ直行できる船便を持っており、これも徳田屋の特色の一つでした。
吉川屋は明治30年代で姿を消しましたが、徳田屋は、大正12年の関東大震災まで存続しました。今は、その跡に碑が建っています。

洲崎の地名由来
これも看板だけ。三浦按針の名前が出てきたので載せた。京急の駅に『安針塚』という駅がある。その近くの逸見に住んでいた筈だが、浦賀にも屋敷があったようだ。
洲崎の地名由来

途中で渡船の東浦賀側の乗り場があったが、あとで取り上げるので一旦はパスする。

東叶神社
最初は浦賀城址を目指したのだ。東叶神社はすぐにわかったものの、城址の案内はどこにもなかった。近所のおじさんに聞いたら、城址は東叶神社の裏山の山頂とのことで、見るべきものは何もないから行くだけ無駄との事だった。根性なしの私は、これ幸いと有り難く忠告に従った。
東叶神社のHPへjump
浦賀城址が説明されている頁にjump
鳥居が見えてきた
鳥居が見えてきた
全景を撮る
道の反対側から撮った。これ以上下がると海に落ちてしまうので、いっぱいいっぱいだった。その証拠写真もある。
全景を撮る_1
全景を撮る_2
全景を撮る_3
全景を撮る_4
鳥居をくぐった
鳥居をくぐった_1
鳥居をくぐった_2
鳥居をくぐった_3
鳥居をくぐった_4
境内案内図
奥の院の辺りに浦賀城の本丸があったようだ。また、勝海舟が咸臨丸出航前に、当地で断食修行をしたと伝えられが、それも此処だったようだ。神社社屋が海抜10mで、本丸があったところが海抜50mか。昔の人は足が丈夫だったようだ。
境内案内図
源氏再興の際に移植されたと伝えられるソテツ
源氏再興の際に移植されたと伝えられるソテツ_1
源氏再興の際に移植されたと伝えられるソテツ_2
源氏再興の際に移植されたと伝えられるソテツ_3
恵仁志坂という長く急な階段を上った先に城址があるようだ。見えているのはごく一部だ。
恵仁志坂_1
恵仁志坂_2
とんでもなく大きく重そうな神輿があった。物凄く古い神輿でもあるようだ。このガラスの反射がなければよかったのだが。
とんでもなく大きく重そうな神輿_1
とんでもなく大きく重そうな神輿_2
由緒書き
源氏再興の願いが叶ったので叶神社という名を頼朝から頂いたのか。叶神社(東浦賀)は、正保元年(1644年)に西浦賀の叶神社を勧請して創建された。始まりは西叶神社の方だったんだ。
伊豆国で配流の身だった源頼朝と知遇を得た北面武士出身の僧・文覚が、源氏再興のために養和元年(1181年)石清水八幡宮を当地に勧請し創建、源氏再興成就した頼朝が文治2年(1186年)に叶大明神と尊称したと伝えられる。
由緒書き
AzTak
Posted by AzTak
投稿 2014年10月20日
最終更新 2014年10月20日

16 Comments

There are no comments yet.

Yuusuke320  

おはようございます。

偶然でしょうがオイラも先日浦賀の渡し船乗船へ2時間ほど滞在し、駆け足散歩でゆっくりできませんでした。
今日からの連載を期待して読ませていただきます。

PS 冒頭地図の会津藩士墓所?気になります。

  

2014/10/20 (Mon) 02:47

hiro  

今日は!

次から次えと色々な所にお出かけになられていますね。
其の努力に頭が下がります。
私も先日植物園へ行きましたが、秋桜しか花が咲いていなくて写真が撮れませんでした。
バラもまだ写真を撮れる状態では無くて・・・・
手持ちの画像が無くてブログの更新はお休みしています。

2014/10/20 (Mon) 15:12

花さか爺サン  

こんにちは
相変わらず精力的に歴史探訪をされて喜ばしいことです。
浦賀はペリーが黒船で来航した港街としても有名ですね。
吉田松陰や佐久間象山他多くの武士や商人が宿泊した徳田屋という旅籠があったようですね。
ここから明治維新は始まったのかもしれませんね。
浦賀には鏝絵も残っており、これらも楽しみにしております。

2014/10/20 (Mon) 15:51

aunt carrot  

いつもとても勉強になります。
源頼朝は蘇鉄好きなのですね。
房総半島の日本寺にも源頼朝公お手植えの蘇鉄が
どんとありましたよ。
丈夫で豪華で好きだったのでしょうか?
浦賀は歴史的に意味の大きい町ですから
続きが楽しみです。

2014/10/20 (Mon) 16:45

のんびり熊  

AzTakさん

こんばんは
佐久間象山と吉田松陰がこの徳田屋で会っていたんですね。
知りませんでした。
郷土の偉人の一人として世に名高い(?)「県歌」にも登場します。
色々と勉強させていただいています。

2014/10/20 (Mon) 20:02

モカ  

こんばんは

見逃したモノを撮りに再度訪れるとは さすがAzTakさんですね!
尊敬します^^
神社の前の道はすぐ海に面しているのですね。
これは落ちてしまいそうです^^;

2014/10/20 (Mon) 20:20

HARU  

こんばんは。

浦賀というとペリー。対のイメージですが、やはり幕末、維新前後の遺跡は数多く残されているのですね。
東叶神社の由緒書きですが、へえっと思ったことがあります。ウバメガシはこちらではポピュラーな木で、とくに和歌山県の海岸山林ではどこにでもある木です。北限がこのあたりにあったというのはちょっと驚きでした。

2014/10/20 (Mon) 20:35

土佐けん  

こんばんは

叶神社と言うんですか?
鳥居を出ればすぐ海ですか!
柵も無いんですね~
撮影に集中していると海にはまりそうですw

2014/10/20 (Mon) 22:23

AzTak  

Re: おはようございます。

Yuusuke320さん、こんばんは。

> 偶然でしょうがオイラも先日浦賀の渡し船乗船へ2時間ほど滞在し、駆け足散歩でゆっくりできませんでした。
> 今日からの連載を期待して読ませていただきます。

下調べ不足&見落としばかりで、内容はごく薄いものになってしまっています。
まあ、歩いたというだけですね。

> PS 冒頭地図の会津藩士墓所?気になります。

当初、幕府は俄にきな臭くなってきた浦賀近辺の防衛の任務を会津藩に任せていた時期があったんですね。嫌ということを絶対に言わない意地っ張りの会津人をうまく使ったのかもしれません。
その時に、任地で亡くなられた藩士の墓のようです。

19世紀に入るころになると、たびたび日本近海で異国船を目にするようになり、江戸湾の警備が必要になりました。
文化7年(1810)幕府は、会津藩に江戸湾警備の任務を命じました。命を受けた会津藩は鴨居と三崎の地に陣屋を構え、三浦半島のほぼ全域を会津藩領としました。任務につくと観音崎と浦賀の燈明堂近くの平根山へ三浦半島で最初の台場を造り、守りを固めました。この任務が永遠に続くものと思っていた会津藩士は一家をあげて横須賀に移住してきたので、鴨居には藩士の教育機関である藩校の養正館も設けられました。ちなみに江戸湾警備についた他の藩はすべて単身赴任でした。
このような状況のもと、横須賀で生涯を閉じた会津藩士およびその家族も多く、現在確認できる墓石だけでも70基以上にのぼります。
会津藩は文政3年(1820)にその任務を解かれますが、ペリーが来航した嘉永6年(1853)には房総半島で再び任務に就き、ペリーが久里浜へ上陸した時には海上警備をしていました。
明治維新で会津藩が新政府軍に破れると、会津を離れ、因縁深い横須賀へ新天地を求めて来た人も多く、その子孫の方が現在も住まれています。

>   

2014/10/20 (Mon) 23:07

AzTak  

Re: 今日は!

hiroさん、こんばんは。

> 次から次へと色々な所にお出かけになられていますね。
> 其の努力に頭が下がります。

(ΦωΦ)フフフ…、単に好きであちこち訪ね歩いているんです。
今回は愛宕山公園が一番きつかったです。どこまで行っても延々と上りの階段が続き、パスすればよかったと後悔しました。途中で諦めて降りたら、途中のところに龍馬の巨大な銅像を建てるのか準備をしているところがありました。
まるで龍馬がおりょうさんを追いかけて浦賀にやってきたような気がしました。
そこで体力を使い果たしたのか、最後の燈明堂への往復が堪えました。

> 私も先日植物園へ行きましたが、秋桜しか花が咲いていなくて写真が撮れませんでした。
> バラもまだ写真を撮れる状態では無くて・・・・
> 手持ちの画像が無くてブログの更新はお休みしています。

まあ、花にも都合というものがあるのでしょう。咲きたくなるまでじっと待ってやりましょう。

2014/10/20 (Mon) 23:17

AzTak  

Re: タイトルなし

> こんにちは

花さか爺サン様、こんばんは。

> 相変わらず精力的に歴史探訪をされて喜ばしいことです。
> 浦賀はペリーが黒船で来航した港街としても有名ですね。
> 吉田松陰や佐久間象山他多くの武士や商人が宿泊した徳田屋という旅籠があったようですね。
> ここから明治維新は始まったのかもしれませんね。
> 浦賀には鏝絵も残っており、これらも楽しみにしております。

はい、頑張ります。
と言いたいところですが、先ほどやっと次回分を予約投稿完了させたばかりで、次々回以降をどうまとめるかなど、何も準備出来ていません。全くもって自転車操業の極みです。

2014/10/20 (Mon) 23:24

AzTak  

Re: タイトルなし

aunt carrotさん、こんばんは。

> いつもとても勉強になります。

学生時代にサボったのが仇となって、きちんと勉強している人ならなんでもないことが、全くわからなくて、冷や汗をかいています。勉強はしておくべきものだと思いました。

> 源頼朝は蘇鉄好きなのですね。
> 房総半島の日本寺にも源頼朝公お手植えの蘇鉄が
> どんとありましたよ。
> 丈夫で豪華で好きだったのでしょうか?

そうかもしれませんね。『叶神社』って名前が良いですね。
気が付かなかったのですが、東叶神社の狛犬は2匹とも阿吽の吽で、西叶神社は2匹とも阿吽の阿なんだそうですね。見たつもりだったんですが、口を開けているか閉じているか、しみじみと見そこねました。
行くついでがあったら、確かめて教えていただければ幸いです。

> 浦賀は歴史的に意味の大きい町ですから
> 続きが楽しみです。

それが、ズボラで下調べもほとんどしなかったので、見落としばかり。内容が薄くなってしまうと思います。m(_ _)m

2014/10/20 (Mon) 23:33

AzTak  

Re: AzTakさん

> こんばんは

のんびり熊さん、こんばんは。

> 佐久間象山と吉田松陰がこの徳田屋で会っていたんですね。
> 知りませんでした。
> 郷土の偉人の一人として世に名高い(?)「県歌」にも登場します。
> 色々と勉強させていただいています。

佐久間象山は松代の人でしたね。彼もまた、当時の日本の規格から大きくはみ出した傑人の一人だったんでしょうね。天寿をまっとうするまで生きていれば、どんな業績を遺してくれたんでしょうね。

2014/10/20 (Mon) 23:42

AzTak  

Re: こんばんは

モカさん、こんばんは。

> 見逃したモノを撮りに再度訪れるとは さすがAzTakさんですね!
> 尊敬します^^

馬鹿なことをする前に、きちんと下調べをしていけば、二度手間にならずに住んだのに。終わってから反省するタイプで、困ったものです。(^_^;)

> 神社の前の道はすぐ海に面しているのですね。
> これは落ちてしまいそうです^^;

落ちたら泳げばよいのですが、それでも大事なカメラが壊れてしまいます。あと1mくらいの余裕を残して、それ以上は下がらないで撮りました。

2014/10/20 (Mon) 23:49

AzTak  

Re: こんばんは。

HARUさん、こんばんは。

> 浦賀というとペリー。対のイメージですが、やはり幕末、維新前後の遺跡は数多く残されているのですね。

幕末、維新前後の浦賀は、日本国防衛の最前線だったようですから。色々あったのでしょうね。

> 東叶神社の由緒書きですが、へえっと思ったことがあります。ウバメガシはこちらではポピュラーな木で、とくに和歌山県の海岸山林ではどこにでもある木です。北限がこのあたりにあったというのはちょっと驚きでした。

和歌山は温暖の地ですからいっぱい自生しているんでしょうね。ここが北限とは、なんと寒さに弱い樹木なんでしょうね。これを伐って木炭をつくろうなんて考えると、お縄を頂戴してしまいますね。

2014/10/20 (Mon) 23:59

AzTak  

Re: こんばんは

土佐けんさん、こんばんは。

> 叶神社と言うんですか?

源氏再興の願いが叶ったので、叶神社という名前を頂いたそうです。演技の良い名前ですね。

> 鳥居を出ればすぐ海ですか!
> 柵も無いんですね~
> 撮影に集中していると海にはまりそうですw

土佐けんさんほどの高級機は所有していませんが、落ちたらカメラがおしゃかになってしまうでしょう。あまり後まで下がることができませんでした。

2014/10/21 (Tue) 00:03

Leave a reply