函館観光(9)
函館市地域交流まちづくりセンター
なんとなく見入ってしまった。雰囲気のある建物だなあ。旧丸井今井百貨店函館支店だったんだ。



函館市の中心地、十字街近く、南部坂の上り口に建つ大型のビル。ドームと塔屋があり、ランドマーク的な装飾の多い意匠となっていますが、理由はかつての百貨店(当初は呉服店)だったから。
市電通りから見る北側は3階建て。1階部分にはデパートらしいショウウィンドウが並んでいます。アール状の角に玄関があり、その上に縦長窓、屋上には円形ドームのある欧風の様式。一方、塔屋のある南側は角ばったモダニズム様式の5階建てになっています。
このようなアンバランスな様式が混在しているのは、昭和初期に百貨店の業務拡大につれて、当初3階建てだったものを、5階建てに増築(昭和5年、昭和9年)したためです。その際、北側のドーム部分はなくなり、代わりに南側の塔屋ができたそうです。近年、耐震性の問題から、一部を竣工当初の3階建てに戻すという改修工事がおこなわれ、ドームが復元されたため、このように不思議な組み合わせになったとか。昭和45年からは市の分庁舎として利用されていましたが、現在は「地域交流まちづくりセンター」として再利用されています。函館市景観形成指定建造物の鉄筋コンクリート造り、3&5階建て。
設計は東京高等工業学校建築科を卒業したのち、熊本県立師範学校、岩手県立工業学校教諭、陸軍省委託を経て佐藤組建築事務所を営んだ佐藤吉三郎(1874~1934)。土浦日本聖公会聖バルナバ教会も彼の設計。
設計・施工は北海道コンクリート建築の先駆者といわれる木田保造(きだ やすぞう、1885~1940)。他に不動銀行函館支店、拓銀函館支店、函館商工会議所本館、天主公教会、渡辺合名会社、大谷女学校、百十三銀行、函館貯蓄銀行、称名寺、日魯漁業函館事務所、函館製綱船具など、大正初期から昭和にかけての函館市内の主な建築工事をほとんど手がけています。
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函館市地域交流まちづくりセンター
旧丸井今井百貨店函館支店(丸井今井呉服店函館支店)
1923(大正12)年 / 1930(昭和5)年、1934(昭和9)年増築
函館市景観形成指定建造物
設計 : 佐藤吉三郎+木田保造
施工 : 木田保造(木田組)
函館市末広町4-19
ベイエリア
丸豆岡田製麺末広工房
ちょっと粋な建物だった。ご自由にお入り下さいと書かれていたが、今回は雨に降られる前に見るべきところを見ておきたかったので、パス。

旧茶屋亭
写真だけ撮らせていただいた。後方は赤レンガだし、とにかく目を引く建物が続くようだ。
この旧茶屋亭の建物は明治末期の海産商の店舗兼居宅の店舗部分で当時の港町箱館の隆盛を伝える典型的な和洋折衷建築物として1988年施行の函館市の西部地区歴史的景観条例で左横側のレンガ塀とともに伝統的建造物に指定されました。
青函博の時、当時の持ち主の方がその期間限定で『旧茶屋亭』の名で営業してたそうです。その名を引き継ぐ形で、内装やメニューなどを一新して茶屋旧茶屋亭として1992年にオープンしました。
「旧茶屋亭」は和洋折衷の外観をそのまま補修保存するとともに内部は当時海外との貿易が盛んな箱館の西部地区にあった各国領事館商館が建ち並ぶなかを多くの外国人が往来しその人達が一時の安らぎを求めて立ち寄った大正ロマン漂うサロンを再現致しました。

赤レンガ倉庫群
本当に美しい。横浜の赤レンガ倉庫もなかなかに洒落ているが、こちらも引けをとらない。ここでは孫にソフトクリームを食べさせただけで、内部に入ることはしなかった。彼がもう少し大きくなったならば、興味をもつかもしれないが。
函館ベイエリアの顔とも言えるスポット。ベイはこだて、Kanemoori、金森洋物館、函館クリスマススクエア、函館ヒストリープラザ、函館ビヤホール、金森ホール、金森美術館から成る。
明治20年に営業倉庫業用として出来上がった赤煉瓦倉庫軍は倉庫不足となるほど勢いづいていた。1度は火災で不燃質倉庫に再建される。昭和後期に入ると輸送形態の変化や北洋漁業縮小などにより倉庫業は勢いを失った。しかし赤煉瓦で積み上げられた風格ある姿が昭和63年4月、金森赤煉瓦倉庫から金森赤レンガ倉庫と生まれ変わり知名度を高めている。









高田屋嘉兵衛資料館
高田屋嘉兵衛は江戸時代後期の廻船業者、海商。その活躍ぶりは、多くの人の知るところだろう。嘉兵衛の死から6年後の天保4年(1833年)に、高田屋を継いだ弟の金兵衛が幕府からロシアとの密貿易の疑いをかけられ、全財産を没収されて高田屋は没落したそうだ。徳川幕府の出る釘を打つ常套手段に引っかかったのだろうが、残念なことだった。
高田屋嘉兵衛《たかたや かへえ、明和6年1月1日(1769年2月7日) - 文政10年4月5日(1827年4月30日)》は、江戸時代後期の廻船業者、海商である。幼名は菊弥。
淡路国津名郡都志本村(現兵庫県洲本市五色町)の農民の子として生まれる。漁業に従事し、18歳で兵庫へ出て廻船業者を志し、淡路と大坂とを往復する瓦船に乗る。寛政2年(1790年)に樽廻船の水主から、船頭となる。紀州での鰹漁や、和泉屋伊兵衛のもとで船頭となり酒田へ航海して資金を貯める。寛政7年(1795年)には、兵庫の北風家の助けを得て、庄内で1700石積の辰悦丸を建造し本格的に廻船業、蝦夷地経営へ乗り出す。
近藤重蔵や間宮林蔵、最上徳内などの江戸幕府役人と接触し、信を得て蝦夷地交易を許可される。幕命により択捉航路を開き、蝦夷地物産売捌方となる。また、箱館(函館)の北洋漁業の基を築いた功労者である。近藤重蔵に依頼され、国後島と択捉島間の航路開拓を行った。択捉島は鱒・鮭が豊富で、嘉兵衛は17ヶ所の漁場を開き、島に原住していたアイヌの民を雇って漁法を教え、彼らの生活向上に資した。
享和元年(1801年)、国後航路の発見・択捉島開拓の功により、33歳の嘉兵衛は幕府から「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許された。嘉兵衛は漁場を次々開拓し、蝦夷地経営で「高田屋」の財は上昇した。
文化3年(1806年)、箱館の大火で町の大半が焼失した時、高田屋は被災者の救済活動と復興事業を率先して行なっていった。市内の井戸掘や道路の改修、開墾・植林等も自己資金で行なうなど、箱館の基盤整備事業を実施した。造船所も建設し、兵庫から腕利きの船大工を多数呼び寄せ、官船はじめ多くの船を建造していった。
文化9年(1812年)幕府によるロシア船ディアナ号艦長ヴァーシリー・ゴローニン幽囚の報復として、嘉兵衛は国後島で副艦長のピョートル・リコルドにより捕えられた(ゴローニン事件)。ディアナ号でカムチャツカ半島ペトロパブロフスク・カムチャツキーへ連行されるが、翌年帰国。帰国後の嘉兵衛は松前奉行を説き伏せ、ロシア側に侵略の意図が無いことを納得させ、人質解放に尽力した。また、幕府の蝦夷御用船頭に任ぜられた。文政元年(1818年)に隠居し、文政10年(1827年)に59歳で死去。



すぐ前の海




金森マークがズラリ
ピンぼけだった


夜の様子(FREE画像を借用)

日本最古のコンクリート製電柱
本当に日本最古なのかと思わせるぐらいしっかりとしていて、今でもその役割を果たしている。触った感じはつるつるしていて、コンクリートの上から何か透明なニスのようなものが塗られていた。形は一般的な丸型ではなく大変珍しい角型で、四角錐になっている。これは電柱マニアでなくても必見である。
1923年(大正12年)10月に函館水電会社(現・北海道電力)が建てたもの。現存するコンクリート電柱としては日本最古のものである。高さ10メートル、底辺47センチメートル四方、上辺が19.5センチメートル四方の鉄筋コンクリート造りで角錐型という珍しい形である。同形の電柱が建物をはさんで建てられたため、夫婦電柱と呼ばれ話題になった。耐用年数を越えても今なお現役として活躍している。



ときおり、小雨程度の雨が落ち始めた。これは引き上げ時だと判断した。息子のリクエストで、『ラッキーピエロ』で昼食用のハンバーガーを仕入れ(店の写真はピンぼけだったので、五稜郭店をあとでUPしたい)、十字街から市電でホテルに帰る。
まだ、昼下がりだが、2日目の観光はこれにてやむを得ず終了。予想通り、五島軒さんに寄る事ができなかったなあ。また、これまた強烈な記憶が残る函館公園内の動物園にも回ることができなかったなあ。いろいろ残念。
十字街の市電停留所
