目黒ウォーキングと昼食会(4) - 目黒ウォーキングと昼食会_2014_May
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目黒ウォーキングと昼食会(4)

都合上、順番を変えて紹介する。最後の食事会の前に行ったのが大圓寺。

大圓寺

江戸初期・寛永年間(1624)、この付近で住民を苦しめていた悪人どもを放逐するため、江戸幕府は奥州(山形県)湯殿山より高僧行人・大海法印を勧請して寺を開いた。法師は悪者どもを一掃し、その功績で、寺には「大円寺」の寺号が与えられという。寺には大日如来堂が建立され、多くの行人たちが周辺に住み修行するようになったため、前に位置する急坂は、「行人坂」と呼ばれるようになったと云われている。
山門を入ると、境内左手のがけに沿い幾段にも並ぶ石仏群がある。釈迦三尊像、五百羅漢像などから成る520体ほどの石仏像は、昭和45年、都有形文化財に指定されている。

大圓寺_1
大圓寺_2
大圓寺_3
大圓寺_4
大圓寺_5
大火犠牲者供養の羅漢像
大火犠牲者供養の羅漢像_1
大火犠牲者供養の羅漢像_2
行人坂火事延焼図
行人坂火事延焼図
振袖火事、車町火事と並んで江戸三大火のひとつである明和9年(1772年)の行人坂火事は、この大円寺が火元といわれている。この寺にとっては不名誉な話であるが、事実のようだ。同寺から出た火は、折からの強風により、たちまち白金から神田、湯島、下谷、浅草までを焼き尽くす大火となった。特に城中のやぐらまでも延焼したので、大円寺は以後76年間も再建を許されなかった。
再建が許されたのは、江戸時代後期の1848年(嘉永元年)になって薩摩藩主島津斉興の帰依を得て、その菩提寺として漸くのことだった。さらに、明治に入り隣接した明王院がこの寺に統合されている。

釈迦如来像
この寺のご本尊は、建久4年(1193年)に造られた清涼寺式釈迦如来立像(寄木造り・高さ162.8センチメートル)で昭和32年に国の重要文化財に指定されている。
永観元年(983年)奈良東大寺の僧「ちょう然(ちょうねん)」が、宋に渡った折、当地で見た天竺渡来の釈迦像に大いに感動した。僧はその像の模刻を日本に持ち帰り、京都嵯峨のお堂に安置した。お堂はやがて清涼寺となった。清涼寺式と呼ぶのは、こうしたいきさつによる。清涼寺の釈迦像は美しいが故に盛んに模刻され、現在は大円寺のほか、鎌倉の極楽寺などにも安置されている。

清涼寺式釈迦如来立像はこの建物の中に安置されているようで、行ったときには拝見できなかった。清凉寺式釈迦如来像の典型作であるとともに、制作年代の判明する清凉寺式釈迦如来像としては最古の作品として貴重だとのことだ。
清涼寺式釈迦如来立像
とろけ地蔵
大火の炎熱で解けたものと思ったが、全く違っていた。(^_^;)
江戸時代に漁師が海から引き上げたもので、名前のとおり、顔や手が溶けたような姿をされているお地蔵さまで、昔から悩み事をとろけさせ、解消してくれるありがたいお地蔵様といわれ、信仰を集めているそうだ。知らなかった。

とろけ地蔵_1
とろけ地蔵_2
薬師如来
薬師如来は、病気などに苦しむ衆生を救ってくださる仏様。身体の悪いところに金箔を貼り、真言「おん、ころころ、ぜんだりまとうぎ、そわか」を唱えて祈願すると、病気平癒のご利益を授けてくださるといわれているそうだ。病気に苦しむ人は少なくないようだ。
薬師如来_1
薬師如来_2
お寺さんの向かい
このお寺さんの向かいにホリプロがある。目の前の坂は急坂として名高い行人坂。延長は150mで、平均勾配は約15.6%だそうだ。凄いものだ。
お寺さんの向かい_1
お寺さんの向かい_2
AzTak
Posted by AzTak
投稿 2014年06月03日
最終更新 -0001年11月30日

14 Comments

There are no comments yet.

Mika  

AzTakさん、こんにちは♪

竈の火、行灯の火、煙草の火、焚きの火・・・
生活の中で毎日使っていた火、いくら注意しても
ちょっとしたことですぐに火事になってしまったんでしょうね。
「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉があるほどですものね^^

とろけ地蔵という名前から私もAzTakさんと同じように考えました^^;
悩みをとろけさせるという言い方がいいですね。
面白いお話を教えていただきました♪

2014/06/03 (Tue) 05:57

のんびり熊  

AzTakさん

おはようございます
行人坂火事は大円寺が火元でしたか。
櫓まで燃えてしまったんでは幕府も再建許可を出しづらかったんでしょうね。
でも救いの神(仏?)は何時の日にか現れるんですね。

2014/06/03 (Tue) 08:16

モカ  

こんにちは

とろけ地蔵、そんなお地蔵様がいるのですね。
海から引き上げたという事ですが、最初からこんなお地蔵様だったのでしょうか?それとも海の侵食なんでしょうか?
不思議なお地蔵様ですね^^

2014/06/03 (Tue) 11:23

花さか爺サン  

こんにちは

大円寺を火元とする行人坂の大火災は、江戸三大火のひとつとされるほどの大火災だったのですか・・・・・
当時、消火活動など大変だったでしょうね。
現代のような科学的な消防技術がなかった江戸の消防は、火元より風下の家々を壊して延焼を防ぎ、火災の被害をくい止める、「破壊消防」が基本で江戸の消防組織は、大名火消と定(じょう)火消、町人地区の町火消に分けられ消防活動に当たったようですが、いったん火が出ると町中が火の海となり延焼をくいとめるのは至難の技だったでしょうね。。
「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるように、江戸では火災が多く火消しの働きぶりがはなばなしかったことと、江戸っ子は気が早いため派手な喧嘩が多かったことをいった言葉だそうですが、いずれにしても大変なことだったと思います。

2014/06/03 (Tue) 14:52

keiko  

こんにちわ(’-’*)♪

凄い家事があったんですね。それを供養するための、石仏像は、昔はそういうことをしたんだなと思いました。とろけ地蔵は、いいですね。私も悩みは多々あるので、いってみたいと思いました。
話はちと、違いますが、最近は愚痴を聞いてくれるテレフォンサービスがあるらしく、時代と共に悩み解消も商売になってしまって、貧しい時代だなと思いました。

2014/06/03 (Tue) 15:55

AzTak  

Re: タイトルなし

> AzTakさん、こんにちは♪

Mikaさん、こんばんは。

> 竈の火、行灯の火、煙草の火、焚きの火・・・
> 生活の中で毎日使っていた火、いくら注意しても
> ちょっとしたことですぐに火事になってしまったんでしょうね。
> 「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉があるほどですものね^^

大円寺もえらい災難だったようです。出火元は確かにこのお寺さんだったようです。でも、放火犯は武州熊谷無宿の真秀という坊主。火付盗賊改長官である長谷川宣雄(長谷川宣以の父親)の配下によって明和9年(1772年)4月頃に捕縛されたとのこと。薩摩藩主が助け船を出さなければ、そのまま廃仏毀釈にも間に合わず、幻のお寺さんになってしまったことでしょうね。

> とろけ地蔵という名前から私もAzTakさんと同じように考えました^^;
> 悩みをとろけさせるという言い方がいいですね。
> 面白いお話を教えていただきました♪

どうしてこういうことになってしまったんでしょうね。よほど現世に未練のあるお地蔵さんだったのでしょうか。しかし、昔の人はうまい考え方をしたものですね。そうでも考えなきゃやっていけないから、努めて明るく振る舞ったのでしょうか。

2014/06/03 (Tue) 19:27

AzTak  

Re: AzTakさん

> おはようございます

のんびり熊さん、こんばんは。

> 行人坂火事は大円寺が火元でしたか。
> 櫓まで燃えてしまったんでは幕府も再建許可を出しづらかったんでしょうね。
> でも救いの神(仏?)は何時の日にか現れるんですね。

大円寺にすればいい迷惑。放火で真っ先に焼け出され、その上、怪しからんということで、再建の願いはとどめおかれたんですから。踏んだり蹴ったりですよね。
薩摩藩主はどういう縁があったんでしょうかね。菩提寺にしたいと言われれば、認めないわけにはいきませんよね。

2014/06/03 (Tue) 19:30

AzTak  

Re: こんにちは

モカさん、こんばんは。

> とろけ地蔵、そんなお地蔵様がいるのですね。
> 海から引き上げたという事ですが、最初からこんなお地蔵様だったのでしょうか?それとも海の侵食なんでしょうか?
> 不思議なお地蔵様ですね^^

品川の海で漁師の網にかかったものらしいです。最初からこんなふうだったか否かが問題ですよね。
ねっとで検索してみると、引き上げられここに置かれていたが、大火で解けたとする記述もありました。
大半は、そこまでは書かれていないので、よくわかりません。

こういうのはお寺さんがしっかりとした経緯を発表すればいいのですが、ITに疎い業界のようです。

2014/06/03 (Tue) 19:41

AzTak  

Re: タイトルなし

> こんにちは

花さか爺サン様、こんばんは。

> 大円寺を火元とする行人坂の大火災は、江戸三大火のひとつとされるほどの大火災だったのですか・・・・・
> 当時、消火活動など大変だったでしょうね。

だと思います。

> 現代のような科学的な消防技術がなかった江戸の消防は、火元より風下の家々を壊して延焼を防ぎ、火災の被害をくい止める、「破壊消防」が基本で江戸の消防組織は、大名火消と定(じょう)火消、町人地区の町火消に分けられ消防活動に当たったようですが、いったん火が出ると町中が火の海となり延焼をくいとめるのは至難の技だったでしょうね。
> 「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるように、江戸では火災が多く火消しの働きぶりがはなばなしかったことと、江戸っ子は気が早いため派手な喧嘩が多かったことをいった言葉だそうですが、いずれにしても大変なことだったと思います。

東横線沿線に『祐天寺』があります。この開山の祐天上人が増上寺の第36世住職のときに、『増上寺消防制度』を創設したのです。『増上寺』に学び修業を重ねている学生を『いろは48文字』の部隊に分け、それぞれの持ち場と役割を徹底して山内消防に役立てました。
上人の在任中、1件の火災も起こりませんでした。この『増上寺いろは消防制度』に目をつけ高く評価したのが第8代将軍徳川吉宗でした。その後、町奉行大岡越前守忠相が『祐天上人』案の『増上寺いろは48文字消防制度』を江戸の町の火消しに採用し、『江戸町火消し』が組織されたのです。地蔵堂の山門天井には江戸火消しの纏の紋様が彫られています。
そういう関連があるようで、今でも祐天寺にはその種の奉納がたくさんあります。

2014/06/03 (Tue) 19:55

AzTak  

Re: タイトルなし

> こんにちわ(’-’*)♪

keikoさん、こんばんは。

> 凄い火事があったんですね。それを供養するための、石仏像は、昔はそういうことをしたんだなと思いました。とろけ地蔵は、いいですね。私も悩みは多々あるので、いってみたいと思いました。
> 話はちと、違いますが、最近は愚痴を聞いてくれるテレフォンサービスがあるらしく、時代と共に悩み解消も商売になってしまって、貧しい時代だなと思いました。

私のちょっとした知り合いの方が、『いのちの電話』に関与されていて、そちらは商売ではなく、完全ボランティアでやっているようです。この受け手は非常に大変だということを伺っています。
まじめの取り組んでいる人も少なくないと思いますよ。

2014/06/03 (Tue) 20:02

HARU  

こんばんは。

 石の仏様。よくみると一体、一体、異なる表情やポーズのようで。ひとつずつ眺めていくと時間がいくらあっても足りませんね。全国あちこちに、五百羅漢などの石仏群がありますが、好きなんです。なんか、ざわざわと声が聞こえるようで。

2014/06/03 (Tue) 22:40

kozoh55  

見れば見るほど、同じ顔が見当たらなくて
もしかしたらすべてにモデルがいたんじゃないかなあって
つくづく思ったのを思い出します。
ここはまた行きたいです、道祖神の像のあの笑顔が
忘れられないです。
またお邪魔します。

2014/06/03 (Tue) 22:45

AzTak  

Re: こんばんは。

haruさん、こんばんは。

>  石の仏様。よくみると一体、一体、異なる表情やポーズのようで。ひとつずつ眺めていくと時間がいくらあっても足りませんね。全国あちこちに、五百羅漢などの石仏群がありますが、好きなんです。なんか、ざわざわと声が聞こえるようで。

私もあちこちの五百羅漢などの石仏群を見て回る方です。今回行った中に、五百羅漢寺があり、ここは当時の日本人の身長なみの大きさ木造の羅漢像があります。本当に写真が撮れたらどんなにか嬉しいだろうと思うのですが、写真撮影厳禁と書かれています。
そこで、下記URLなんですが、昨春に放送された昼時日本列島の内容のようです。NHKなどが行くとビデオカメラを回し、HPには堂々と写真が載るのに、我々には何故に門戸を開放しないのでしょうか。
http://www.nhk.or.jp/shutoken/hirumae/sanpo/2013-04/0403.html

2014/06/03 (Tue) 23:09

AzTak  

Re: タイトルなし

kozoh55さん、おばんです。

> 見れば見るほど、同じ顔が見当たらなくて
> もしかしたらすべてにモデルがいたんじゃないかなあって
> つくづく思ったのを思い出します。
> ここはまた行きたいです、道祖神の像のあの笑顔が
> 忘れられないです。
> またお邪魔します。

ここは、放火とはいえ、行人坂の大火の火元でありますが、そのほかにお七の方ともいささか関係があるようですね。お七の思われ人が、その後、明王院に身を寄せて、精進したようですね。三大火の内の二つと関連するとは、…。

この寺はまた、八百屋お七の情人吉三ゆかりの寺でもある。

吉三は出家して西運を名乗り、大円寺の下(今の雅叙園の1部)にあった明王院に身を寄せたという。西運は明王院境内に念仏堂を建立するための勧進とお七の菩提(ぼだい)を弔うために、目黒不動と浅草観音に1万日日参の悲願を立てた。往復10里の道を、雨の日も風の日も、首から下げた鉦(しょう)をたたき、念仏を唱えながら日参したのである。かくして27年後に明王院境内に念仏堂が建立された。しかし、明王院は明治初めごろ廃寺になったので、明王院の仏像などは、隣りの大円寺に移された。

西運に深い関心を持っていた大円寺の当時の住職であった福田実衍(じつえん)師は、昭和18年、同寺に念仏堂を再建した際、万葉集出画撰を描いた大亦観風画伯に「お七吉三縁起絵巻」を描いてもらった。その一部、木枯らしが吹きすさぶなかを、念仏鉦を力一杯たたき、念仏を唱えながら、日参する西運の姿を刻んだ碑が境内に立っている。

2014/06/03 (Tue) 23:24

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