目黒ウォーキングと昼食会(4)
大圓寺
江戸初期・寛永年間(1624)、この付近で住民を苦しめていた悪人どもを放逐するため、江戸幕府は奥州(山形県)湯殿山より高僧行人・大海法印を勧請して寺を開いた。法師は悪者どもを一掃し、その功績で、寺には「大円寺」の寺号が与えられという。寺には大日如来堂が建立され、多くの行人たちが周辺に住み修行するようになったため、前に位置する急坂は、「行人坂」と呼ばれるようになったと云われている。
山門を入ると、境内左手のがけに沿い幾段にも並ぶ石仏群がある。釈迦三尊像、五百羅漢像などから成る520体ほどの石仏像は、昭和45年、都有形文化財に指定されている。





大火犠牲者供養の羅漢像


行人坂火事延焼図

振袖火事、車町火事と並んで江戸三大火のひとつである明和9年(1772年)の行人坂火事は、この大円寺が火元といわれている。この寺にとっては不名誉な話であるが、事実のようだ。同寺から出た火は、折からの強風により、たちまち白金から神田、湯島、下谷、浅草までを焼き尽くす大火となった。特に城中のやぐらまでも延焼したので、大円寺は以後76年間も再建を許されなかった。
再建が許されたのは、江戸時代後期の1848年(嘉永元年)になって薩摩藩主島津斉興の帰依を得て、その菩提寺として漸くのことだった。さらに、明治に入り隣接した明王院がこの寺に統合されている。
釈迦如来像
この寺のご本尊は、建久4年(1193年)に造られた清涼寺式釈迦如来立像(寄木造り・高さ162.8センチメートル)で昭和32年に国の重要文化財に指定されている。
永観元年(983年)奈良東大寺の僧「ちょう然(ちょうねん)」が、宋に渡った折、当地で見た天竺渡来の釈迦像に大いに感動した。僧はその像の模刻を日本に持ち帰り、京都嵯峨のお堂に安置した。お堂はやがて清涼寺となった。清涼寺式と呼ぶのは、こうしたいきさつによる。清涼寺の釈迦像は美しいが故に盛んに模刻され、現在は大円寺のほか、鎌倉の極楽寺などにも安置されている。
清涼寺式釈迦如来立像はこの建物の中に安置されているようで、行ったときには拝見できなかった。清凉寺式釈迦如来像の典型作であるとともに、制作年代の判明する清凉寺式釈迦如来像としては最古の作品として貴重だとのことだ。

とろけ地蔵
大火の炎熱で解けたものと思ったが、全く違っていた。(^_^;)
江戸時代に漁師が海から引き上げたもので、名前のとおり、顔や手が溶けたような姿をされているお地蔵さまで、昔から悩み事をとろけさせ、解消してくれるありがたいお地蔵様といわれ、信仰を集めているそうだ。知らなかった。


薬師如来
薬師如来は、病気などに苦しむ衆生を救ってくださる仏様。身体の悪いところに金箔を貼り、真言「おん、ころころ、ぜんだりまとうぎ、そわか」を唱えて祈願すると、病気平癒のご利益を授けてくださるといわれているそうだ。病気に苦しむ人は少なくないようだ。


お寺さんの向かい
このお寺さんの向かいにホリプロがある。目の前の坂は急坂として名高い行人坂。延長は150mで、平均勾配は約15.6%だそうだ。凄いものだ。

