金沢市にて(5)

長町武家屋敷跡(その1)
金沢市の説明板の記述によれば、長町という名称は、香林坊下から図書橋まで南北にのびるその通りの長さから付いたと言われる。また、藩の老臣長氏や山崎長門の氏名に由来するとも言われるそうだ。
この一角には加賀藩時代の上流・中流階級藩士の侍屋敷が軒を連ねている。土塀と石畳の路地が続いており、藩政時代の情緒ある雰囲気を味わうことができる。
冬には雪や凍結から土塀を守るため菰掛けがおこなわれる。
菰掛け
雪の被害から土塀を守るために行われる、金沢の初冬の風物詩です。
12月、長町武家屋敷跡に、土塀を寒さから守る「こも」が掛けられると、本格的な冬の訪れの合図。金沢のまちなみも冬の装いに様変わりしていきます。
北陸の雪は水分を含んだぼたん雪が多く、ゆっくり静かに降りてきます。
冬の金沢では、昔ながらの風情のまちなみが白く化粧され、いつもとは違う静謐な美しさが見られます。


大野庄用水
金沢で最も古い用水で、富永佐太郎によって完成したと伝えられている。灌漑、物資運搬、防火、防御、融雪などの多目的用水だが、金沢城築城に大きな役割を果たしたと伝えられている。旧宮腰(金石港)から大量の木材を運ぶために造られたことから、御荷川(または鬼川)と呼ばれていた。ちなみに、当時、木倉町には木材集積所や材木蔵があり、ここで資材を荷揚げし貯えていたと思われる。旧戸板村・旧鞍月村・旧大野村・旧金石町を灌漑している。
【現在】犀川桜橋の上流右岸地点で取水している。長町武家屋敷周辺では土塀沿いを流れ、その流れは今でも屋敷内庭園の曲水に利用され、時折、ホタルも見かけられる。また用水沿いの縁台に鉢植えを飾っている家もあり、その風情は金沢の伝統景観そのものである。
この街灯は、ガス灯風の電気の街灯だと思う。それにしても、この一角は電柱も電線も見当たらず、歩いていて気持ちの良い景観だ。


武家屋敷跡の様子










大屋家
下記説明の通り、江戸時代の平士級武家屋敷の様式が、ほぼ完全なかたちで残る遺構として極めて貴重というか、これしかない存在とのこと。本当は中に入って何枚か写真を撮りたかったのだが、気後れしてしまった。
国指定登録有形文化財、金沢市指定保存建造物
大屋家は、土塀が連なる長町武家屋敷群跡の中心に位置する、平士級の武家屋敷の遺構です。武家屋敷の建築本体としては、この地区で唯一残っているものであり、敷地周囲を囲む土塀も当時の遺構で、東側と南側の土塀は瓦葺きに変更されていますが、北側の土塀は木端葺きの姿を残しています。
建築年代は明らかではないものの、江戸後期は下らないものと思われます。
建物はアズマダチで、屋根は明治末期に板葺石置屋根から瓦葺の屋根に変更されたもので、板葺石置屋根だった当時の古写真が残されています。現在も小屋裏には当時の小屋組の遺構がそのまま残されています。
建物の主屋は、間口8.5間、奥行8.5間、西側と南側にはそれぞれ、明治末期から大正初期に増築された新建部分と隠居部屋が附属しています。
土塀と板塀で囲われた敷地内の庭も、江戸時代の面影を現在に残す貴重な遺構です。前庭は砂利敷きで、左右にはそれぞれ座敷庭と勝手前の庭とを隔てる板塀が連なります。
南側土塀の外側には大野庄用水が流れており、その流れが敷地南西の隅角部で土塀の下から敷地内に引き込まれています。この流れはかって、生活用水や泉水として利用されていました。
このように、大屋家は、金沢の中心部に位置する江戸時代の平士級武家屋敷の様式が、ほぼ完全なかたちで残る遺構として極めて貴重です。



新家(あらいえ)邸長屋門
金沢市指定保存建造物
長町の武家屋敷に残る金沢を代表する長屋門です。屋敷は離れを残して今はありませんが、藩政期には桑島氏が居住していました。
長屋門は、赤戸室でやや反りをもった亀甲積みの基礎の上に、壁は太い押縁の付いた下見板部と軒下の白漆喰の小壁とが好対照をなしています。屋根は、現在瓦葺きですが、昭和3年までは板葺き石置きでした。入り口は厚い板石が敷かれた引込み空間であり、脇にはこの長屋門を特徴づける大きな武者窓が張り出しています。扉は両開きであり、中に入ると石は敷かれず、土が表れた状態となっています。
長屋の中は、一方が仲間部屋であり、その玄関には細かい透し格子の引遣戸が入っています。玄関にはいると武者窓からの物見(モノミ)が隣接しています。仲間部屋は竿縁天井の6畳2間であり、全面道路に向けて窓が開けられています。この窓には鉄格子のように見える丸棒が入っていますが、実は木製です。背面は流しを含む土間で、屋根裏まで吹き抜けた空間です。
他方、長屋門を入った左手は馬屋でした。現在は物置として使用されていますが、馬の手綱を結わえた鉄輪が屋根裏の梁に今も残っています。


