神代植物公園と深大寺(7)
「深大寺」の名称は、仏法を求めて天竺(インド)を旅した中国僧玄奘三蔵を守護したとされる神「深沙大王」(じんじゃだいおう)に因むと伝える。 天平5年(733年)満功上人が法相宗の寺院として開創したと伝える。859年、天台宗に改宗する。1646年と1865年に火災に遭っており、堂宇の大半を失っている。現在の本堂は大正年間の再建である。
本尊は本堂に安置の阿弥陀三尊像。東京都では浅草の浅草寺に次ぐ古刹である。
元三大師堂
深大寺にお参りに来る人のお目当ては、此処に安置されている慈恵大師(じえいだいし)〔元三大師(がんさんだいし)〕像を拝み、それと同時に諸々の祈願を行うことのようだ。像は2mにも及ぶ巨大なものであるが、秘仏の扱いとされ、通常は見ることは出来ない。今度見られるのは、2034年になる。



慈恵大師(じえいだいし)〔元三大師(がんさんだいし)〕像を安置しているのが、この大師堂です。江戸時代の大師堂は、本堂の西南(新しい手水屋の在る辺り)に東向きに建っていましたが、幕末の火災で類焼したので、本堂西の崖地を削って造成した敷地に位置を移して再建されました。
被災直後の慶応三年(1867)に、本堂をさしおいて復興されたことは、厄除元三大師がいかに多くの信者を集めていたかを物語っています。また毎年3月に行なわれる元三大師祭(だるま市)を行なうために早々に復興されたとも考えられます。いずれにしてもこの元三大師堂は本堂とならび古来より深大寺の中心的役割を果たしていた建物であると言えます。
大きさはもとのお堂と同じくらいで、正面柱間(はしらま)は三間、側面四間、周囲に縁をめぐらしています。内部はもとは奥一間が仏壇で、その中央に、火災を免れた厨子に慈恵大師像が安置されていました。現在、天蓋風の荘厳(しょうごん)があるところが、もとの厨子のあった位置です。
昭和四十九年の改造では、内部を広くするために仏壇を後退させ、厨子の部分は堂の背後に突出する建物として新築しましたが、厨子の正面は江戸時代のものをそのまま用いています。また平成元年までの数回の改造増築で、両側の政所、縁の張り出しが行われました。
元三大師像は秘仏となっており平時に拝観することはできません。25年に一度、御開帳の行事が行なわれ一般にも公開されます。
2009年は元三慈恵大師良源の1025年目の御遠忌にあたりました。50年に一度の大遠忌の半分(25年)は中開帳といわれ、深大寺では御開帳の行事が行なわれました。次は大遠忌で2034年になります。
おびんづる様
本堂の左に元三大師堂がある。その一番前の目立つ位置に賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)の像があった。どうも、いろいろな寺院におびんづる様があるようだ。謂われはご自分で調べていただくことにしたいが、善男善女に撫で回されて全身ツルツル状態。
私も負けずに頭、顔、腰、膝、…殆どくまなく撫でた感じ。

釈迦堂
写真のとおりで、有難味にはやや欠ける感じだ。

重要文化財の「銅造釈迦如来倚像(白鳳仏)」を安置する堂宇として昭和51年に新築されたのが、この釈迦堂。大切な仏像を火災、盗難から守るため鉄筋コンクリート造りとし、湿気の多い土地であることを考慮して高床式に作られている。四本の円柱に支えられた屋根は方形造り、銅板葺きと言われるもので、頂部に露盤・宝珠をすえている。
銅造釈迦如来倚像(重要文化財)
この像がどういうふうに扱われ、どうして再発見に至ったのか、ちょっとしたミステリーだ。
ガラスに押し当てて撮るべきだった

深大寺sanpoさんの画像を借用

1909年(明治42年)に元三大師堂の壇の下から発見されたもので、現在は釈迦堂安置。白鳳時代の作。関東地方には数少ない白鳳時代の仏像であり、顔立ち、流麗な衣文、若々しい青年を思わせる肉付けなどは、時代の特色を表している。倚像(いぞう)は、椅子に腰掛けたポーズの像を指す。日本の仏像では倚像は比較的珍しいが、白鳳時代の金銅仏にはまま見かける。
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深大寺の分限帳(1841年)、明細帳(1898年)に銅仏の記載があり、深大寺の火災(1865年)後、本堂より先に再建された大師堂に置かれていたようです。しかし、これより先のいわれは不明で、近くの祇園寺にあったという言い伝えもあり、謎の部分が残されています。