三渓園(17)
旧燈明寺は、天平年間行基の開創と伝える。聖武天皇・清和天皇勅願。あるいは貞観5年(873)真暁(弘法大師弟子)が開基したとも伝える。何れにしても、由緒ある寺院であった。しかし数奇な運命を辿り、建武の兵乱で一度廃絶の憂き目に遭っている。
康正年間(1455-1456)、天台僧忍禅が復興し、本堂・三重塔を建立する。その後、再び荒廃する。
寛文3年(1663)頃、本國寺日弁(便)によって再興。本堂・三重塔を修理。寛保3年(1743)日賢が三重塔を修理。
というように何度も浮沈を繰り返してきた。
止めは、廃仏毀釈運動の煽りを受けたことだろう。この流れの中で廃寺になったと推測されている。御霊神社だけは現在も当時と同じ位置に存在している(重文)。そして、明治34(1901)年に、川合芳太郎が燈明寺を買収。大正3(1914)年に、まず、三重塔を横浜三渓園に移転。その時点で廃寺にはなっていたものの、本堂は残っていた。しかし、昭和23(1948)年に台風により本堂が大破し、解体保存がなされた。その後も、再建の方策を模索していたが、どうしようもなく、三重塔の売却で縁があった三渓園に話が持ち込まれた。
ということで、昭和57(1982)年に、横浜三渓園に本堂部材を移動。三渓園で再建される。この本堂部材の傷みが相当に激しく、相当なテコ入れがなされたようだ。詳しいことは下記URLを参照されたい。





よく見ると仏像が安置されている。燈明寺の旧仏は本物は京都府木津川市兎並(うなみ)(旧相楽郡加茂町)の御霊神社に保管されているそうだが、これは果たして何なのか。調べたら、この堂内にあるのは御霊神社に保管されている十一面観音のレプリカのようだ。


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