三渓園(9)
次に取上げる『春草廬』だが、迂闊にも見落としてしまい、自前の写真がない。そのため、FREEの写真を借用させていただく。また、後半の蓮華院の写真は自前のものもあるが、竹やぶに遮られて、冴えない写真になってしまった。こちらもかなりの枚数のFREEの写真を借用させていただいた。
春草廬(重要文化財)桃山時代建築
実にややこしい話だが、この春草廬は元々は月華殿に付属して建てられていた茶室で、月華殿とともに移築されてきた。しかし、ペアだったはずのこの二つの建物は泣き別れとなり、月華殿に付属の茶室は新設された。これが『金毛窟』である。
そして、この月華殿に付属して建てられていた茶室は、当初、原三渓氏夫人の茶室として使用され、窓が九つあったので『九窓亭』と呼ばれた。信長の弟・織田有楽斉(1547~1621)が建てたものと伝えられる三畳台目の茶室である。
この建物とは全く別に『臨春閣』が大坂春日出新田にあって、『八州軒』と呼ばれていた当時、同敷地内にあった茶亭が、『春草廬』という名称だった。この本来の『春草廬』という名称だった建物は、原三渓氏が扁額とともに電力王松永安左ヱ門氏に贈与した。後年、この扁額だけが返還されたのを期に、『九窓亭』にこの扁額を掲げ、『春草廬』という名称に変更したということだ。なお、本来の『春草廬』と言われた建物は、現在東京国立博物館に寄贈されているそうだ。
複雑な話だが、ご理解いただけただろうか。
上記事情に触れたHPへjump
この藤棚の奥にある

以下はFREE画像を借用







蓮華院 1917年(大正6年)建築
もとは、現在の春草廬の位置にありましたが、 第二次世界大戦後に竹林にある茶室という構想のもとに現在の位置へ再築されました。 二畳中板(にじょうなかいた)の小間と六畳の広間、土間からなっています。
ひとこと&みどころ
土間の中央にある太い円柱と、その脇の壁にはめ込まれている格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材と伝えられています。蓮華院という名は、三溪が茶会を催した際に広間の琵琶床に、奈良東大寺三月堂の不空羂索観音が手に持っていた蓮華を飾ったことに由来しています。


以下はFREE画像を借用






こんなものもあった

次回からは再び自前の写真で説明したい。
春草廬(重要文化財)桃山時代建築
実にややこしい話だが、この春草廬は元々は月華殿に付属して建てられていた茶室で、月華殿とともに移築されてきた。しかし、ペアだったはずのこの二つの建物は泣き別れとなり、月華殿に付属の茶室は新設された。これが『金毛窟』である。
そして、この月華殿に付属して建てられていた茶室は、当初、原三渓氏夫人の茶室として使用され、窓が九つあったので『九窓亭』と呼ばれた。信長の弟・織田有楽斉(1547~1621)が建てたものと伝えられる三畳台目の茶室である。
この建物とは全く別に『臨春閣』が大坂春日出新田にあって、『八州軒』と呼ばれていた当時、同敷地内にあった茶亭が、『春草廬』という名称だった。この本来の『春草廬』という名称だった建物は、原三渓氏が扁額とともに電力王松永安左ヱ門氏に贈与した。後年、この扁額だけが返還されたのを期に、『九窓亭』にこの扁額を掲げ、『春草廬』という名称に変更したということだ。なお、本来の『春草廬』と言われた建物は、現在東京国立博物館に寄贈されているそうだ。
複雑な話だが、ご理解いただけただろうか。
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この藤棚の奥にある

以下はFREE画像を借用







蓮華院 1917年(大正6年)建築
もとは、現在の春草廬の位置にありましたが、 第二次世界大戦後に竹林にある茶室という構想のもとに現在の位置へ再築されました。 二畳中板(にじょうなかいた)の小間と六畳の広間、土間からなっています。
ひとこと&みどころ
土間の中央にある太い円柱と、その脇の壁にはめ込まれている格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材と伝えられています。蓮華院という名は、三溪が茶会を催した際に広間の琵琶床に、奈良東大寺三月堂の不空羂索観音が手に持っていた蓮華を飾ったことに由来しています。


以下はFREE画像を借用






こんなものもあった

次回からは再び自前の写真で説明したい。