三渓園(3) 2013.04.08 22:35追記
ただ立派だと言う言葉しか出てこない。なぜ、聚楽第と巌出御殿とが混同されたのだろうか?判断する材料には事欠かなかっただろうに、そのことが不思議でならない。
下記解説にあるように、右端の区画(第一屋)が『遠侍』、中程の区画(第二屋)が『面会所』、左端の区画(第三屋)が『居間』。

1649年(慶安2年)建築
桃山時代に豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構と伝えられていましたが、現在では和歌山県岩出市にあった紀州徳川家の別荘 巌出御殿(いわでごてん)ではないかと考えられています。内部は狩野派を中心とする障壁画と繊細・精巧な数寄屋風書院造りの意匠を随所に見ることができます。
※障壁画は複製画で、原本は園内の三溪記念館で収蔵し定期的に展示を行っています。
ひとこと&みどころ
部屋の境にある欄間には、波の彫刻(第一屋)や、和歌を書いた色紙(第二屋)をはめ込むなどの工夫が凝らされています。 なかでも面白いのは、第三屋「天楽の間」にある欄間で、ここには、雅楽に馴染み深い笙と笛など本物の楽器があしらわれています。
紀州から徳川家8代将軍となった徳川吉宗は幼少期、巌出御殿に遊び育ちました。
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臨春閣は、大正四年に三渓園に移築されました。
それまでは慶安二年(一六四九)造営の紀州徳川家の別邸・巌出御殿(いわでごてん)であろうと考えられています。
宝暦十四年(一七六四)に紀州家より泉州佐野の豪商・飯野家に下賜され、大阪・春日出新田(現在の此花区四貫島付近)に移築され、後に原氏の手に渡りました。
現在、我が国に残る唯一の大名別荘建築で、屋内の障壁画は狩野伝永徳・伝山楽・探幽らの筆になるものです。
向かって右手の玄関側より、第一屋・第二屋・第三屋の三棟の建物からなりますが、二階造の第三屋は、三渓園移築前は第一屋の右側に建てられていました。
第一屋は取次や警護の家臣が詰める遠侍、第二屋は面会所で、南側は内苑池にかかり(巌出御殿時代は紀ノ川にせり出していたもの)、開放的な数寄屋風の造りです。
第三屋は、欄間に笙(しょう)などの楽器や百人一首の色紙形を散りばめるなど、自由な意匠から居間に用いられていたようです(毎年8月1日~16日一般公開)
ここが本来の玄関口?
閉めきってあるので、よくわからない。多くの写真は池側からのショットばかりで、この部分に関する説明は殆ど見当たらない。


玄関口が開いたフリー画像が見つかったので追記する

如何にも写真向きな佇まい。少し遠目から撮ってみた。



第一屋
遠侍の部屋ということなのかやや暗い感じ


第二屋





第三屋

第二屋を池側から見た様子
池に浮かぶようなしつらえになっている


