日光へ行った(2)
東照宮(1)
今回取り上げるゾーンは、東照宮にあっては地味な感じのするものばかり。華があるのは次回以降に取り上げるものになる。
表参道
すごく広々として気持ちのよい空間だ

アイスバーンになっていて非常に歩きにくい

石鳥居…重要文化財
鎮座の翌年の元和4(1618)年、九州筑前(福岡県)藩主黒田長政公によって奉納された。石材は、まず九州から船で小山まで運ばれ、その後の陸路は人力でこの日光まで運ばれた。
上手く将軍家とも関係を保った黒田長政公らしく、逸早く目立つことをしたようだ。


黒田藩52万石の藩主、黒田筑前守-ちくぜんのかみ-長政が元和-げんな-4(1618)年に奉納した石造りの鳥居で、高さ9メートル、柱の太さ3.6メートル、柱の中心の間隔が6.8メートル。京都八坂神社、鎌倉八幡宮のものと合わせて日本三大石鳥居と呼ばれるが、江戸時代に建てられた石造りの鳥居としては日本最大。後水尾-ごみずのお-天皇が書いた「東照大権現」の額だけでも畳1枚分の大きさがある。使われている石は筑前(福岡県)産の花崗岩-かこうがん-で、エジプトのピラミッドなどと同じ、土嚢-どのう-を積む方法で引き上げた15個の石材で組み立ててある。石材を心棒で継ぎ、柱の上に渡した笠木-かさぎ-・島木-しまぎ-は軽量化のため空洞がある。こうした耐震設計の働きで、昭和24(1949)年に日光を襲った地震のときは、最初の強い揺れでかなりずれた継ぎ目が、余震で元の位置に戻ったという。
五重塔…重要文化財
初層には方位を示す十二支の彫刻があり、正面(東)の彫刻は、徳川三代の干支。寅は家康、卯は秀忠、辰は家光だそうだ。ちょうどうまい具合に並んだものだ。見逃してしまって残念。



若狭-わかさ-(福井県)の小浜-おばま-藩主、酒井忠勝の寄進で慶安-けいあん-3(1650)年に建立されたが、文化-ぶんか-12(1815)年に焼失し、3年後の文政-ぶんせい-元(1818)年に忠勝の子孫、忠進によって再建された。
高さは約36メートル。内部は吹き抜けになっていて、中心を貫く直径60センチの心柱-しんばしら-が4層(4階)から鎖でつり下げられ、その最下部は礎石の穴の中で10センチほど浮いている。建物が揺れても重心は常に中心にあって倒壊を防ぐ耐震・耐風対策といわれる。また、年を重ねると木材が縮んだり、建物自体の重みで屋根が沈み、建物に隙間-すきま-が生じる。そこで心柱を浮かせれば、屋根の下降とともに心柱も下がり、隙間が生じないというわけだ。
初層から4層までは屋根の垂木-たるき-がまっすぐ平行の和様、5層は垂木が扇の骨のように放射状で曲線の唐様-からよう-になっている。初層を飾る動物彫刻は子-ね-(ネズミ=北)、卯-う-(ウサギ=東)など十二支で方角を表している。
御仮殿…重要文化財
本社を修理する際にご祭神(東照宮の場合は徳川家康公)をお移ししてお祀りする御殿で、現在の社殿は寛永16(1639)年の建立とのことだ。御仮殿が常設されているのはここだけだそうだ。





御仮殿は、本社を修理する際、神霊-しんれい-を一時的に移しておく建物。寛永-かんえい-16(1639)年の建立とされる。本殿の建て替えや修理にあたっては仮設の社殿を建て、新しい本殿が完成したらそれを取り壊すのが一般的だが、日光東照宮では本社の修理が頻繁だったため、御仮殿は常設の建物になっている。御仮殿といっても本社と同じく拝殿・相の間・本殿からなる権現造り-ごんげんづくり-。神霊が御仮殿に移っているときは、すべての神事が御仮殿の境内でおこなわれ、神事に必要な神楽殿-かぐらでん-・護摩堂-ごまどう-・神輿舎-しんよしゃ-・雪隠-せっちん-などが仮設される。神霊を御仮殿に移すことを外遷宮-げせんぐう-といい、これまで19回おこなわれた。文久-ぶんきゅう-3(1863)年以降は一度もない。
表門…重要文化財
東照宮最初の門で、左右に仁王像が安置されているところから仁王門とも呼ばれているそうだ。これから続く絢爛豪華な世界に誘う門としてはかなり地味な感じだ。






此処から先はめくるめくような絢爛豪華な世界が

表門は正面左右に「阿吽-あうん-」の仁王像(身長4メートル)を安置しているので、昔は仁王門と呼ばれていた。仁王は仏教の守り神。明治4(1871)年実施の神仏分離で、この仁王像は大猷院-たいゆういん-の仁王門に移された。それ以来、門の名称も表門と呼ばれるようになった。仁王像が戻ってきたのは明治30(1897)年。
門の側面にいる唐獅子-からじし-や獏-ばく-、通路に面した麒麟-きりん-や虎-とら-など82の彫刻が施されている。裏面の虎のうち右から2頭目の体の模様が違う。縞-しま-ではなく丸、つまりヒョウであるが、江戸時代、ヒョウは虎の雌-めす-と思われていた。