近所を散歩した(10)
円融寺は、激変の歴史を歩んできた。
かつては、妙光山法服寺と称し、天台宗の寺院であった。寺伝では853年(仁寿3年)円仁(慈覚大師)が法服寺を建立したとなっている。目黒といえば、目黒不動尊。これを808年(大同3年)に開創したのが、ほかならぬ円仁である。なので、円融寺の寺伝も信頼に足るものかもしれない。
ところが、寺伝の853年から430年後の1283年(弘安6年)、日蓮の弟子・日源により、日蓮宗に改宗し、妙光山法華寺と改称した。中世から近世にかけては吉良氏や徳川氏の外護を受け、坊舎18、末寺75箇寺を数えた。1630年(寛永7年)、身池対論(しんちたいろん)には法華寺から日進が臨んでいる。
見てきたようなことを言えば、不受不施派の旗頭は、池上本門寺といわれているが、実際には、当時の法華寺の方がはるかにラジカルだったようである。今の野党も顔色を失うほどの体制批判をもいとわなかったとか。それで、不受不施派は危ない一派だとみなされるようになっていったのかもしれない。
法華寺は不受不施派の寺院として江戸幕府の弾圧を受け、改宗を余儀なくされ、1698年(元禄11年)再び天台宗の寺院となった。1834年(天保5年)経王山円融寺と改称する。不受不施派とは、法華経信者以外からは施しを受けず、与えずという一派で、日蓮宗本山の久遠寺と対立し、江戸幕府からも弾圧された。日源の法脈は、当寺の改宗をもって完全に途絶えていった。当寺の尊像など、祖師像は妙法寺、三宝尊像は(目黒区中根の)立源寺、釈迦如来涅槃之図は(目黒区八雲の)常円寺、法華門は妙法寺、摩耶夫人像は摩耶寺など、所縁寺院に引取られていった。
然らば、日源とはいかなる人物だったのか。Wikipediaによれば、次のような人物だ。
当時、天台宗の実相寺の学頭を務め、智海法印と称した(播磨法印とも)。日蓮が一切経を閲読するため実相寺に入寺した時、摩訶止観の講義を聞いて感銘を受け、日蓮の弟子となり、日源と改名する。その後、官命により、実相寺5世となり、日蓮宗に改宗した。各地を布教して、法華寺・感応寺・法明寺・東光寺を法華の道場とした。
釈迦堂(2)
真横や背後から見た様子。どこから見ても、素晴らしい。



日源上人五重石塔
仁王門と並んで、目黒区指定文化財になっている。上述の歴史で触れたようなことがあって、不受不施派の有力寺院は徳川幕府に鉄槌を降り下ろされてしまったのだ。一番勢いがあったときの日源上人五重石塔が残っている。区指定文化財だ。

総高は約4.4メートル。碑文によると、日源上人の追善供養のため寛永13(1636)年に建立され、その後、文化11年(1814)に再興されている。この石塔は、軸石と笠石が別々の石で構成され、しかも軸石が高く、そのため雄大な五重塔となっている珍しい例である。各軸石には、上から「妙」「法」「蓮」「華」「経」と刻まれ、最下層の軸石には由来や造立者などが刻まれている。
円融碑
現代の石碑で、文化功労者豊道春海氏の筆によるもの。『融』の字を丸で囲み、右端に『無礙天真』と書かれてあるそうだ。恥ずかしながら、達筆すぎて全く読むことができなかった。合わせると『圓融無礙天真』となる。『天から与えられた人間の自己本来の姿は何事にも妨げられることなく、大宇宙の中に融け入って自由である』という意味合いになるようだ。う~~ん。

その他の石造物
めぼしいものを見ておこう。




