近所を散歩した(2)
人出は予想より若干多かったが、来たついでに気になるところを見ておいた
山門
227年ほど経過するものだ。2階部分の戸が開けられていると、阿弥陀如来像と二十五菩薩像が安置されているのが見え、壮観なのだが、…。








桁行3間(8.1mメートル) 梁間2間(42メートル)、入母屋造、銅板葺
附 棟札 寛政5年5月、棟札 地形建方寄進
この仁王門は本堂の南東側に建てられています。寛政5(1793年)5月に上棟された、区内で唯一の楼門(ろうもん)建築です。上層の外回りには高欄(こうらん)付きの縁がめぐります。下層正面の左右には金剛力士像、上層内部には阿弥陀如来像と二十五菩薩像が安置されています。
山門脇の石塔
殆どが300年以上経過しているんだ
享保6辛丑年(1721)のもの。字などははっきり見えるが、顔面のみが破壊されているのが残念だ。

元禄17甲申年(1704)のもの

享保4己亥年(1719)のもの。この像も顔面が派手に破壊されている。

元禄3庚午年(1690)のもの

鐘楼堂
楼門よりもかなり以前に作られたようだ。


宝永5年(1708)世田谷領の深沢、谷岡又左衛門の寄進で、作は、神田鍛冶町の河合兵部郷藤原周徳である。堂屋も欅造りで欄間には十二支がほられ、北に子、南に午がほられている。
三仏堂も本堂も閉扉の扱いに
この時期だから仕方がないことではあるが、楽しみにして出かけた人たちはがっかりしたことだろう。

三仏堂の内の上品堂と本堂との間の仮設の天空の路が設けられ、二十五菩薩来迎会(おめんかぶり)が厳修(ごんしゅ)されるのだ。厳修するというのは、仏教で、儀式を厳かに執り行うことを意味する。


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三仏堂と本堂との間の敷地
ここには終戦直後、紅蘭女学校が一時仮住まいをしていたそうだ。念仏と祈りとが同居していたのか。
