秋の三渓園(2)
三渓園に入ると、大池と、三渓園のシンボル的な国指定重要文化財の建造物旧燈明寺三重塔とが目に飛び込んでくる。来園者を一瞬で魅了する実に画になる景観だ。旧燈明寺三重塔については、別の回分で詳しく取り上げる。







鶴翔閣(旧原家住宅) 横浜市指定有形文化財 <貸出施設>
この内部を私は一度も見たことがない。人気の貸し出し施設のようだ。外部から見えるのは建物のごく一部だけで、かなり大きな建物だ。原三渓氏の自宅だったもので、豪壮な建物なのだろう。



和風高級旅館も顔色を失うほどの立派な玄関

内苑に近い位置にある一番端の建物。外からは、端と端の建物しか見えないことになる。

1902年(明治35年)三溪が建て、三溪園造成の足がかりになりました。広さ290坪に及ぶこの住宅は、主に、楽室棟、茶の間棟、客間棟から構成されています。上空から見た形があたかも鶴が飛翔している姿を思わせることから、“鶴翔閣”と名づけられました。震災、戦災などをへて多くの改変がなされましたが、1998年(平成10年)から2000年(平成12年)にかけて修復工事を行い、建築当初の姿に復元されました。鶴翔閣には日本を代表する政治家や文学者が集い、横山大観、下村観山といった日本美術院の画家が創作活動のために滞在しました。
御門【横浜市指定有形文化財】1708年(宝永5年)頃建築
京都東山の西方寺にあった薬医門。国指定の重要文化財『臨春閣』の玄関につながるような位置に配置されている。


御紋の突き当りには前述の『臨春閣』が覆いに囲まれている。現在は補修作業中のようだ。本来ならば、こんなふうに見えるはずだ。PDF画像を借用

白雲邸【横浜市指定有形文化財】1920年(大正9年)建築 <貸出施設>
原三渓氏の隠居所的な建物だったようだ。ここも、外から覗い知れる建物ではなく、この写真程度のものが見えるだけだ。塀と玄関とが見えただけじゃあ、…。


大正9年(1920)建築。家族と暮らした鶴翔閣から離れ、亡くなるまでのおよそ20年を夫人と過ごした住まい。自らの着想で同郷の大工山田源市に建てさせたもので、臨春閣と呼応するようL字型の間取りで中庭を作り、内苑の古建築と総合的に計画されています。吟味された材料と伝統工法に基づいた数寄屋風のつくりは、鶴翔閣と同じく和風のライフスタイルを貫いた原三溪の木造建築への深い理解が読み取れますが、椅子・テーブル席となる談話室や屋根の構造など、近代的要素を和風建築へ導入する試みもみられます。