北鎌倉の花さんなどを楽しむ(11)
ゆっくり見ていって』と石像のお出迎えだ
その近辺のイワタバコの咲き方を見ていただく。ちょっと元気がない感じだった。





用堂女王墓
後醍醐天皇の皇女だった用堂女王墓が、この上のやぐらにある。お参りしておく。兄である護良親王の菩提を弔うためか。う~~ん。






五世用堂尼は後醍醐天皇の皇女。用堂尼の入山後、東慶寺は「松岡御所」と称され、寺格の高い寺として知られるようになった。用堂尼は、鎌倉に幽閉され、悲運の最期を遂げた後醍醐天皇の皇子護良親王の菩提を弔うために東慶寺に入ったのだといわれている。
開山の覚山尼の墓
明月院に参ったからには、こちらの東慶寺にも参るのが筋なのだろう。夫の暴力などに苦しむ女性を救済する政策を行なったと言われ、直接史料は無いが、これが元で東慶寺は縁切寺(駆込寺、駆入寺とも)となったと言われている。日本における社会貢献活動の先駆者だろう。


東慶寺を開いた覚山尼は、八代執権北条時宗の正室。父は安達義景、母は北条時房(北条政子の弟)の娘。1284年(弘安7年)4月、時宗が臨終に先立ち出家すると供に出家し、無学祖元から「覚山志道」という法名が与えられた。翌年、東慶寺を開く。
釈宗演師の墓
何度も言及しているように、「松岡御所」とも称された東慶寺が、明治以降、寺格を維持するのが困難な事態に陥った。それを立て直した中興の祖である。

楞迦塔顕彰盤
釈宗演師の号の一つが楞迦窟。彼を顕彰するもののようだ。

墓前の歌碑
近づいてみても碑文がはっきり読めなかった。撮った画像を拡大して、帰宅後に心眼で読んでみた。次の通りではないかと思う。『古ゝろより屋がて心につたふれば さく花となり鳴く鳥となる』


「心よりやがてこころに伝ふればさく花となり鳥となる」釈宗演。「雲に問へはくもはもたせり風にとへはかせなかれ去るいかにせましや」佐佐木信綱。
その他の寺関係者の墓
古い墓はやぐらの中にあるが、新しい墓は今どきの露天の墓だ。




イワタバコ
イワタバコは旬が終わろうとしていた。本来はもう少しシャンとしている筈だが、すっかり出遅れてしまった。東北絆祭りでの強烈な腰痛発症が恨めしい。






墓苑の様子
今回個人の墓は取り上げない。雰囲気だけでも知っていただきたい。



帰りの山門前の様子
予想通り20分ほどの間に続々と人が押しかけてきていた

以上で、『北鎌倉の花さんなどを楽しむ』シリーズは終了です。最後までご覧いただき、有難うございました。