芝公園(ザ・プリンスパークタワー東京の敷地)~増上寺~芝大神宮~芝離宮恩賜公園(3)
現 徳川将軍家墓所門〔元 文昭院殿(六代目家宣公)宝塔前中門〕







第十二代家慶公(慎徳院殿)…石塔



第九代家重公(惇信院殿)…石塔



第七代家継公(有章院殿)…石塔




有章院霊廟(PDF画像を借用)

第二代秀忠公(台徳院殿)、お江の方(崇源院殿)夫妻…石塔
秀忠公宝塔は焼失したため、正室江与殿のものを使用。お江の方の没後、崇源院霊屋が増上寺に建てられたが、秀忠の没後、崇源院は台徳院霊廟に祀られた。建物(旧崇源院霊屋)は正保4年(1647年)、鎌倉の建長寺に移築され、仏殿となった。



第六代家宣公(文昭院殿)、近衛熙子(天英院殿)夫妻…青銅製




第十四代家茂公(昭徳院殿)…石塔


第十四代御正室静寛院宮皇女和宮


合祀塔



現在の合祀塔には、家光公第三子で家宣公の実父である徳川綱重をはじめ、家光公側室で五代綱吉公の生母桂昌院、十一代家斉公正室広大院、家宣公側室月光院ら南北の御霊屋に祀られていた歴代将軍の夫人や子女の多数が埋葬されています。
なお宝塔は月光院輝子の墳墓に祀られた宝塔が使われています。
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増上寺は東京上野の東叡山寛永寺(天台宗)と共に徳川将軍家の菩提寺で、当山に埋葬されているのは、二代秀忠公・六代家宣公・七代家継公・九代家重公・十二代家慶公・十四代家茂公の6人の将軍のほか、崇源院(二代秀忠公夫人)、皇女和宮さま(十四代家茂公夫人)ら5人の正室、三代家光公側室桂昌院(五代綱吉公実母)はじめ5人の側室、及び、三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)ともよばれ、増上寺大殿の南北(左右)に立ち並んでいました。 墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、その当時の最高の技術が駆使された厳粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも戦前国宝に指定されていましたが、昭和20(1945)年3月10日に北廟被災、5月25日に南廟被災と二度にわたる空襲直撃でほとんどが焼失し、わずかに残った建物もその指定を解除されました。 焼失した御霊屋郡はしばらくのあいだ荒廃にまかされていましたが、昭和33(1958)年から文化財保護委員会が中心となり、詳細なる学術調査が行なわれ、のち土葬であった御遺体は桐ヶ谷にて荼毘に付され、南北に配していた墓所は一か所にまとめられ現在地に改葬されました。 調査によれば細部では各将軍若干の違いがあるものの、埋葬は、まず地中かなり深い部分に頑丈な石室を設け御遺体を安置し、二枚の巨石をふたにして、その上に基檀と宝塔は安置されていたといわれています。 墓所にある「鋳抜門」は旧国宝で、もと文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣公)の宝塔前『中門』であったものです。左右の扉に5個づつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれています(青銅製)。規模は勿論のこと、その荘厳さにおいても、日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構です。