芝公園(ザ・プリンスパークタワー東京の敷地)~増上寺~芝大神宮~芝離宮恩賜公園(2)
旧方丈門
港区指定有形文化財だそうだ。ほとんど取り上げられることがないが、私の好きな門だ。古色を帯びた感じが堪らなく好きだ。



増上寺の方丈(庫裡)の表門であったので方丈門とよばれ、また全体が黒漆塗であたために黒門ともよばれた。四脚門で、建造年代を明らかにする棟札などの記録は見出せないが、江戸時代初期の特徴を示す様式から17世紀後半のものと推測される。蟇股には唐獅子や牡丹が浮彫されていて、精巧で写実的な図柄は、近世の建築彫刻の特色を示している。長年の風蝕のため、古色をおびているが、桃山建築の豪華さのおもかげがうかがえる。
慈雲閣(開山堂)
戦災で焼失した開山堂。再建は増上寺開山・酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人の550年遠忌記念事業の中心として平成元年(1989)になされたのか。


この御堂は、平成元年(1989)増上寺開山・酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人の550年遠忌記念事業の中心として、戦災で焼失した開山堂の再建を企画、建築されました。二階中央には聖聰上人像、両脇にはその師・聖冏(しょうげい)上人像と当山中興の聰観智国師像が安置されています。
経蔵
東京都指定建造物。収蔵されていた家康公が増上寺に寄進した宋版、元版、高麗版の各大蔵経は国の重要文化財に指定されている。現在は、後方にある収蔵庫に移管されているとのことだ。



徳川幕府の助成により建立されました。内部中央に八角形の輪蔵を配する、九間半四面、土蔵造の典型的な経蔵で、都の有形文化財に指定されています。 家康公が増上寺に寄進した宋版、元版、高麗版の各大蔵経が収蔵され、これは国の重要文化財に指定されています。(現在は後方の収蔵庫に移管)
三解脱門…国指定重要文化財
大門から三門までは約108間か。三門をくぐり108の煩悩から解脱できるというわけなんだ。そして、さらに三門から大殿までは距離にして約48間。阿弥陀仏の48願。大無量寿経に説く、阿弥陀仏が法蔵菩薩であった時に立てた願をいうのか。う~~ん。





東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、正式名称を三解脱門といいます。元和8(1622)年、徳川幕府の助成により幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。再建されました。増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されています。 三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のことです。上層部(楼上)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。
鐘楼堂
除夜の鐘の中継でしか聞いたことがなかったが、やはり巨大な梵鐘に鐘楼だ。いろいろな梵鐘を見てきたが、間違いなく最大級のものだ。



寛永10年(1633)年の建立ですが、現在の鐘楼堂は戦後に再建されたものです。鐘楼堂に収められている大梵鐘は、延宝元(1673)年にあまりの大きさに7回の鋳造を経て完成し(東日本で最大級)、江戸三大名鐘の一つに数えられています。 朝と夕べ、2回撞く鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす108の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く6度の誘いでもあります。 江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」「西国の果てまで響く芝の鐘」等と謳われ、庶民に親しまれました。
大殿
戦災に遭い焼失した本堂が再建されたのは、戦後29年後の昭和49(1974年)年までまたねばならなかった。それまでは、安国殿が本殿お役目を負っていた。その不便な状況に終止符を打ち、大本山の念仏の根本道場として、あらゆる儀式法要が行えるよう斬新な設計と意匠で、大堂として再建されたのだ。




昭和49(1974年)年、大本山の念仏の根本道場として、あらゆる儀式法要が行えるよう斬新な設計と意匠で、戦災に遭い焼失した本堂が再建されました。首都圏では最大級の御堂で、石段を登りつめた二階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地下に増上寺宝物展示室があります。本堂のご本尊阿弥陀如来(室町期製作)は、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀られ、参拝される方々の厚い信仰をあつめています。
大殿と安国殿と東京タワーとの3ショット
安国殿は、戦災で焼失した大殿の代わりに仮本堂としていた建物を、昭和49(1974)年、新大殿完成の折りに境内北側に移転し、御堂「安国殿」としたもの。その後、老朽化のため、平成23(2011)年法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として徳川家康公が成し遂げた"天下泰平の世(安らかな国づくり)"を願い、新しい安国殿が建立されたそうだ。

大殿と光摂殿と東京タワーとの3ショット
絶品と言われる光摂殿の大広間、各天井の天井絵を見てみたいものだ。
