日本民家園(12)
建立年次の明らかな民家としては、東日本では茨城県出島村の椎名家住宅の遠方2年(1674)に次いで古いそうだ。貞享四年(1687)の建築で、築後332年経過か。石造りだともっと古いものがざらにあるが、木造だとこんなものかもしれない。
居間に関しては、以前に広瀬家住宅を取り上げた際の土座で大変驚かれたと思うが、こちらは、竹簀子にむしろを敷いた床だ。これまたびっくり仰天してしまうものかもしれない。
HPの説明では、名主の家と書かれてあるが、教育委員会のHPでは、名主の分家と伝えられると書かれてある。本家か分家かは大きな違いだと思うが、川崎市の認識はかなりアバウトなもののようだ。
外観
しっかりつくってある家屋だと思う。外からでは竹簀子床の居間がある家だとは思いもしないことだろう。






家屋内部の様子
竈のすぐ後ろは、竹簀子床になっているのがよく分かるはず。だが、奥の方に目を凝らすと、床板が張ってある。なぜ、こんな面倒なことをしたのだろうか?よほど建てた当時の主婦の力が強かったのかなあ。だとすると、我が家と同じかな。






国指定重要文化財
旧所在地:神奈川県秦野市堀山下
建物区分:農家(名主の家)
構造形式:寄棟造、茅葺、桁行15.6m、梁行8.9m
建築年代:貞享四年(1687)、墨書
貞享四年の墨書が残る古民家
この建物で特筆されるのは、建築年代がはっきりしていることです。加えて、建築としても非常に優れており、日本で最も重要な民家の一つといえます。建築年代は、柱の先端に墨で記されていました。これを墨書といい、理兵衛という大工の棟梁(とうりょう)の名前も明らかになっています。
日常生活の場であるヒロマは、竹簀子と板の間を使い分けています。竹簀子には必要に応じてムシロを敷きました。上手のオク(正座敷)には床の間が付き、ヘヤ(寝室)は畳敷で押入も備えています。このほか、ヒロマとオクに濡縁が付くなど、同じようなつくりの旧伊藤家住宅に比べ、発達した様子を示しています。
見どころポイント!
竹簀子床には厚いムシロを敷いて生活していました。
江戸時代初期の民家としては、非常に明るく開放的な造りです。
ヒロマとダイドコロ(土間)の間の柱には、ウロコのような模様があります。これは、カンナが普及する前のチョウナという刃物で削った跡です。