京都と大阪とへの小旅行(2) 2018.07.22 14:55 画像追加
山鉾巡行の順番は、くじとらずの長刀鉾など(全部で9基が該当。前祭では、他に函谷鉾、放下鉾、岩戸山、船鉾の4基)以外は、7月2日に行われるくじ取り式で決められるのだそうだ。余分なことかもしれないが、私が居た場所のちょっと先で、順番が守られているかの確認するくじ改めを行う。
実に面白い儀式のようだ。興味のある方は、ここをクリックして確認されたい。


と、ここまで書くと、『なんでお前はそんなつまらないところで見たのか』という話になるかもしれない。そこで見るのは大変なことなのだと思うので、普通に見ることができる位置を選択したのだ。
以下では順番に山鉾を紹介していく。
蟷螂山(とうろうやま)
山一番のくじを引いたのは、今年は蟷螂山。全体の二番目を巡行する。注目度の高いめでたい籤を引き当てたものだ。この町にかつて住んでいた公卿の四条隆資(1292~1352)の戦いぶりが「蟷螂の斧」のようだったことからできた
『とうろう』という音を聞くと『灯籠』を思い起こすかもしれないが、こちらはカマキリの方の『蟷螂』である。友人も言っていたが、カマキリの鎌が動く一種のからくりが用意された唯一の山だ。写真を見比べていただければ、確かに動いていることが確認できる。
遠目ではよくわからないかもしれないが、てっぺんにカマキリが載っている




カマキリがはっきり見えだした。鎌が動いているのがお分かりだろうか?その場では気が付かなかったのだが、上に載せられている御所車の黒い車輪も動くのだそうだ。2つのからくりがあったんだ。






クローズアップしたもの。カマキリの鎌と御所車の車輪とが動くのだ。


前懸、胴懸、見送は共に羽田登喜男氏作の友禅で統一されている。同じ作者の作品なので統一がとれていて、なかなか見応えだったように感じた。

蟷螂山は、「蟷螂の斧を以て隆車の隧を禦がんと欲す」という中国の故事にちなんでいる。その起源は南北朝時代で、足利義詮軍に挑んで戦死した当町在住の公卿、四条隆資(1292~1352)の戦いぶりが「蟷螂の斧」のようであったことから、渡来人で当町居住の陳外郎大年宗奇が卿の死後25年目の永和二年(1376)、四条家の御所車にその蟷螂を乗せて巡行したのがはじまりといわれる。
その後、蟷螂山は再三の戦火に遭うが、そのつど再興され、巡行を続けてきたのであるが、元治の大火(1864)でその大部分を焼失してしまい、昭和56年、117年ぶりに再興された。
蟷螂山の特徴は、かまきりと御所車の車輪が動くなど、祇園祭の山鉾としては、唯一のからくりが施されていることである。前懸、胴懸、見送は共に羽田登喜男作の友禅で、瑞苑浮遊図などがある。
霰天神山(あられてんじんやま)
山二番、全体の三番目を巡行するのは霰天神山だった。永正年間(1504~1520)、京都に大火のあったとき、時ならぬ霰が降り猛火はたちまちに消えたそうだ。ここまではある程度考えられる状況かな。そのとき一寸二分(約3.6センチ)の天神像が降ってきたので、これを祀ることにしたとか。まるで、聖書の逸話のような感じだなあ。
幟を持つのは外国人。ピーターパンが持っているような印象だった。


そのほかにも外国人が3人ほど。国際色豊かな祭礼になったことを喜ぶべきなのだろうか?

前懸は西欧のタペストリーだな。16世紀にどういうルートで入手したのだろうか?

くじ改めをしている影響なのか、待ちが目立つようになった。

左右の胴懸は上村松篁(昭和60年新調)、上村淳之(平成14年新調)親子の原画花鳥綴織で、後懸は「紅地雲龍宝尽図」(平成21年新調)が用いられているそうだ。新しいものでも手を抜かないんだなあ。くじ改めの際に一回転して懸装品を披露しても、恥ずかしくない内容だ。



錦小路通室町西入にあるので「錦天神山」または「火除天神山」ともいわれる。永正年間(1504~1520)京都に大火のあったとき、時ならぬ霰が降り猛火はたちまちに消えたが、そのとき一寸二分(約3.6センチ)の天神像が降ってきたのでこれを祀ったのがこの山の起こりであるという。山の上には欄縁にそって朱塗り極彩色の廻廊をめぐらし、中央に唐破風春日造の神殿を安置する。前懸は16世紀にベルギーで製作された「イーリアス」物語を描いた毛綴を用いているが(平成21年復元新調)、中国刺繍の太湖岩鳳凰図もある。左右の胴懸は上村松篁(昭和60年新調)、上村淳之(平成14年新調)親子の原画花鳥綴織で、後懸は「紅地雲龍宝尽図」(平成21年新調)が用いられている。山の縁起にちなみ宵山には「火防せ、雷除け」の御守が授与される。
祇園祭山鉾
京都八坂神社の大祭(前祭七月十七日、後祭二十四日)に巡行する山と鉾で、あわせて二十九基あるが、うち二十二基は山と称さられ、三基をのぞき人がかつぐもので、他の七基は鉾と称せられ車でひく。山のうち三基は鉾と同じように車でひき、形態も鉾に近いが、山の面影を残しているところに特色があり、舁山から曳山にうつりかわる過程を示すものと見ることができる。いずれも神霊を迎えるための要素をそなえているところに価値があるばかりでなく、よく古い習俗をつたえ、各地の祇園祭に影響をあたえたものとして重要である。