掛川に行ってみた(9)
国宝の彦根城を見に行った時も感じたことだが、城の防衛上重要な場所には家老を住まわせて責任の一端を担わせていた。それと同じようなことが、この掛川城の竹之丸においてもなされていた。当時誰が住んでいたかよりも、維新後のその一画の変遷が興味深い。
竹之丸には、江戸時代から続く葛布問屋「松屋」を営んでいた松本家が住まう。また、その隣接地には、前回取り上げた大日本報徳社が土地を取得したのだ。多くの人に細分されたのではなく、まとまった大きな土地の活用が図られたことは、ある意味で、後世の人のためになった。
前置きは、その程度に収め、中に足を踏み入れてみる。
門をくぐる
昔の家老屋敷のような風格だ



ついでに庭も見ておこう



暑くて敵わないので、屋内に入って涼もう
掛け軸の字を読もうとすると疲れて、余計汗をかきそうなので、早々に断念した




離れらしい
ヨガ教室開催中とかで立ち入りはできなかった

メインの部屋
大きな和室だ。四方八方が開け放たれている。それでも暑さを感じない。ゆったり造られている建物はいいなあ。在りし日はどんな使用方法をしていたのだろうか?



喫茶スペース
将棋の対局が行われたのだろうか。棋士2人の色紙が飾られてあった。




暑くてたまらなかったので、クールダウンを図った。たまにはいいかな。

この字なら簡単に読むことができる
渡辺明王将の『意志堅固』と、羽生善治三冠の『泰然自若』。ともに個性的な字ではあるが、…。将棋ほどには鍛錬を積んでいなさそうだ。

改めて庭を見た



こちらのお宅は、葛布問屋「松屋」を営んでいた松本家が本宅として建築した建物だそうだ。葛布ってどんなものか確認し、小物を土産に買って帰ろうと思っていたのだが、店の前を素通りしてしまったようだ。残念無念。あの裃の生地なのか。う~~ん。
当地に葛布の製法が生まれたのは、その昔、掛川西方の山中にある滝の側で庵を結んでいた行者が、滝水に打たれ、さらされている葛蔓を見つけ、それが繊維として使用できると考えて、信徒の老婆に葛の繊維を採る方法を教え与えたことからと言い伝えられております。
歴史的に認識されて来たのは鎌倉時代からで、当時は、蹴鞠(ケマリ)の奴袴(サシキヌ)に用いられ、江戸時代に入り東海道の掛川宿の繁栄と共に葛布も栄え、広く世間に知られ裃地(カミシモジ)、乗馬袴地、合羽地などに使用され、また参勤交代の諸大名の御土産品としても大変珍重されておりました。ところが、明治維新による武家階級の転落、生活様式の急転により壊滅的打撃を受け問屋は大半が転業しました。
明治の初期、襖の引き手の葛布にヒントを得て、従来の着尺巾を三尺巾に織り、東京に出し大好評を得て以来、襖地として生産される事となり、また明治30年頃より壁紙としてアメリカへ輸出したところ大変評判が良くGrassClothの名で、最高級の壁紙として喜ばれました。
戦後になるとコストの安い韓国産が出回り再び大打撃を受け、現在は織元も三軒になりましたが、伝統を守った葛布の持つ美しさと素朴な味わいは、今でも内外を問わず多くの人々に親しまれ、愛用されております。
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掛川城の郭「竹の丸」
天正18年(1590年)、豊臣秀吉によって掛川城主に任命された山内一豊は、それまでの掛川城に郭を付け加え、城を拡張しました。この時に竹の丸も造成されたと考えられます。
竹の丸は、天守閣や本丸など城の中心部に通じる道筋にあたり、防衛上重要な場所であったことから、家老など重臣の屋敷地に割り当てられていました。
竹の丸の由来
いつ頃から竹の丸と呼ばれていたのか明らかではありませんが、18世紀初頭に描かれた「遠州懸河城郭図」には、「竹ノ丸」という表記が見られます。
現在の建物
江戸時代より続く葛布問屋「松屋」を営んでいた松本家が本宅として建築した建物です。主屋は明治36年に建造され、桁行10間、梁間7間半の平屋建寄棟造です。離れは大正末期から昭和初期にかけて、平屋建から二階建に増築されています。
昭和11年、邸宅は当時の掛川町に寄贈され、現在も掛川市で管理しています。
平成19年1月30日に市の文化財指定を受けた竹の丸(旧松本邸)は、平成19年6月から修復工事を行い、平成21年5月30日に落成式を迎え一般に公開されています。
掛川城公園
はす池
池の中で何やら手入れをしている人がいた。してみるとかなり浅い池のようだ。


三の丸から見た様子
幕末の安政東海地震で崩壊するまでは、城郭御殿もこの奥の三の丸にあった。城郭御殿からの眺めはこんな風だったのだろう。

