掛川に行ってみた(4)
天守閣から二の丸御殿に向かう
ここから石を落とされたら防ぎようがないなあ




ここから先は一気に急こう配の下り坂

二の丸御殿…国指定重要文化財(1)
最初、恥ずかしながら本丸御殿だと思い込んでいた。が、よく考えれば、二の丸御殿だ。当初は下記の掛川市の資料にある通り、本丸にも御殿があったようだが、諸般の事情でこちらに統合されたようだ。現存する城郭御殿は全国に4つ残るのみ。本丸御殿が川越城と高知城。二の丸御殿は京都二条城と掛川城にしか残っていない。天守閣の8つと比してもさらに希少価値があろう。
下り坂を下り切った辺り




振り返って見上げると

十露盤堀(そろばんぼり)
背後に見えるのは、時の櫓と四足門

三日月堀(みかづきぼり)


この先が二の丸御殿だ

二の丸御殿の御殿車寄と玄関が見えてきた
現存する城郭御殿はほとんど存在しない。貴重な文化遺産なのだ。よく見ておくだけの価値がある。玄関は藩主、城代しか使用することができず、藩士は別の玄関や土間から出入りしたのだそうだ。


掛川城御殿
御殿は、城主の公邸、藩の役所、公式式典の場などとして使用されました。書院造と呼ばれる建築様式で、畳を敷きつめた多くの室が連なり、各室は襖によって仕切られています。
当初は、本丸にも御殿がつくられましたが老朽化したり災害にあって、二の丸に移りました。
現存する御殿は、嘉永7年(1854年)大地震で倒壊したため、時の城主太田資功によって、安政2年(1855年)から文久元年(1861年)にかけて再建されたものです。
安政2年から明治2年(1869年)までの14年間は掛川藩で使われましたが、廃城と同時に勤番所と徳川家兵学校に転用され、廃藩置県とともに掛川宿に無償下附され聚学校として使われました。その後も女学校、掛川町役場、掛川市庁舎、農協、消防署などに転用され続けました。
その後、現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国でも数カ所しかない、江戸時代の藩の政治や大名の生活が偲ばれる貴重な建築物として、国の重要文化財に指定されています。