川越を歩く(3)
最近の2度は耐震化工事施工中だったためのため、見学できなかった『時の鐘』。実に久しぶりに全体を拝むことができた。タイミングが良くなかったのか、『赤いきつねと緑のタヌキ』の鐘の前で収録したCMが流れていたのに、ご本尊は姿を隠したままだった。
久しぶりに晴れ姿を見せている所為か、鐘つき通りも観光客で賑わっていた。ここからでも、鐘も撞木棒もはっきり見えるんだ。



真下に立つと、この『時の鐘』がかなりの高さであることが実感できた


裏側には急こう配の階段があった。たとえ特別に許可されても、絶対に上りたくない感じだった。

撞木棒がかなり後方に突き出していたのが印象的

服部民俗資料館
こちらもなぜか、内部を見学しないままに通り過ぎてしまっている。きちんと見れば、面白い展示内容なのだと思うが、…。

埼玉県川越市の幸町にある服部民俗資料館は、もとは照降商(てりふりしょう、傘や下駄を扱う靴屋)と薬種商(やくしゅしょう、薬を調合・販売する薬屋)を営んでいた商家・服部家住宅でした。
建物は江戸時代後期の商家の面影を残す切妻造り平入り。川越大火の直後、明治26年(1893)に上棟式を行なったと伝えられています。昭和59年(1984)に服部民俗資料館を開館し、代々同家に伝わる商家の民具を中心に一般公開(無料)しました。館内には下駄や雪駄、薬の広告看板などが陳列され、座敷には帳場が置かれています。これらの民具は集めたものではなく、服部家で実際に使用されていたものです。春になると、江戸時代の人形師・仲秀英(なかしゅうえい)の手になる名品、嘉永5年(1852年)の銘を持つひな人形が特別公開されます。
埼玉りそな銀行川越支店
前身である第八十五国立銀行は、明治11年(1878年)に川越藩の御用商人横田五郎兵衛・黒須喜兵衛らによって、設立願いが提出され全国で八十五番目にできた銀行。現在の建物は、大正7年(1918年)に旧国立八十五銀行本店として建てられ、国の登録有形文化財の指定を受けている。設計は保岡勝也。3階建てのインパクトがある佇まいは、時の鐘と共に川越のランドマーク的な存在。
この建物を設計した保岡勝也は、明治・大正・昭和と活躍した建築家。丸の内の赤煉瓦オフィス街を初め多くの住宅建築を手がけているそうだ。川越では4つの作品を設計していて、旧国立八十五銀行本店、旧山崎邸、山吉デパート、川越貯蓄銀行がその建築で、その内川越貯蓄銀行以外が現存している。
明治期の建物が多い蔵造の街並みにあって、大正期の建築が堂々と聳えている。これはこれで素敵なものだ。


旧山吉デパート
川越の住んでいる人ならば知らない人はいないといわれる「丸広百貨店」。丸広がスタートしたのは、現在の新富町「クレアモール」ではなく、今や観光地として賑わう蔵造りの街並み。前述の埼玉りそな銀行川越支店の説明の登場した建築家「保岡勝也」の最後の作品だそうだ。
昭和11年に建てられたこの「山吉ビル」を借り、川越初のデパートとしてオープンしたのが始まり。今では地下1階、地上10階の丸広百貨店は、この3階建ての小さなビルからスタートしたのだそうだ。
近くでよく観察すると、明治、大正時代の建物にも引けを取らない立派な昭和の建物だ。



田中屋ビル
旧山吉デパートと隣り合う田中屋ビル。一見鉄筋コンクリート造りの建物のように見えるが、実際には木造モルタル塗りの土蔵造りのビルだそうだ。本当にそうなのか確認したいところだが、私の目では確認できていない。

川越の蔵造り通りには黒漆喰塗りの和風商家のほか、旧八十五銀行本店など大正から昭和初期に建てられた洋風建築が数多く現存していますが、この田中屋もその中のひとつです。
もとは輸入自転車の販売店として大正4年に建てられたそうですが、西欧の古典建築をベースにしながら玄関脇に施されたルネサンス風のモチーフが簡略化したデザインなどは、いかにも大正期らしいものであります。先に紹介したように竣工当初は輸入自転車の販売店ということで、施主やこの建物を造った棟梁は、皆の注目をいかに集めるかということに知恵を絞ったのではないかと思える建物であります。竣工より九十数年経った現在でも、そのインパクトは失われていない川越の誇る洋風建築の一つと言えるのではないでしょうか。