川越を歩く(1)
菓子屋横丁
平日で朝が早い所為なのか、お客さんはまばら。不思議なもので、客も腰を引き気味だ。これが、人手があると、次々と客が入るのだろうが。




養寿院
川越といえば、喜多院や蓮馨寺などが有名だ。だが、この養寿院も見逃すことができない古刹ではなかろうか。菓子屋横丁の直ぐ近くにある。
川越の地名の由来となった、河越氏の当主・河越経重が開基で、歴代川越城主の信仰も篤い寺院であったからである。この河越氏は、もともとは平氏の流れであるが、波乱万丈の生き方を貫いたようだ。主題からどんどん逸れるので、細かいことには立ち入らないが、かなり面白いものがある。
山門




本堂


庫裡


伝河越太郎頼重の墓
墓も此処だと伝えられるのみで、定かではない。一族が滅亡すると権力者の足跡をたどるのも困難になるんだなあ。


養寿院は、埼玉県川越市にある曹洞宗の寺院である。山号は青竜山。
寛元(1244年)、河越氏の当主・河越経重が開基となり、大阿闍梨円慶法師が開いた寺。密教の古道場であったが、天文4年(1535年)に天台宗から曹洞宗に改められた。徳川家康の関東入国の際に、家康から御朱印十石を賜った。家康は鷹狩りで立ち寄っている。
本堂には河越氏が京都東山新日吉山王社に寄進した文応元年(1260年)銘の銅鐘(国の重要文化財工芸品)が保存されている。鐘には「武蔵国河肥庄新日吉山王宮」と「河肥」の文字があり、歴史的に貴重なものである。
墓地内には河越太郎重頼の墓があり、寺には岩手県雲際寺にある源義経と重頼の娘である正室の位牌の写しが安置されている。また江戸時代に河越藩主・秋元喬知に仕えた名家老・岩田彦助の墓もある。
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養寿院は曹洞宗に属し、寛元元年(1243年)、秩父平氏の末裔河越次郎経重公(遠江守)が開基となり、大阿闍梨阿圓慶法師が開いた古刹である。
本尊は釈迦牟尼如来(華厳の釈迦如来)、脇侍に観世音菩薩・弥勒菩薩を配し、「三世佛」の扁額を掲げる。
開創当初は台密の寺(天台系密教寺院)であったが、天文4年(1535年) 時の住職隆専上人「年老いて任に堪えず」、曹洞宗太源派下扇叟守慶和尚の道風を慕い寺を付属し禅宗寺院となった。
三世尭室存舜和尚の時代、徳川家康公ご来駕の折、御朱印十石を賜るなど、歴代川越城主の信仰も篤く多いに栄え、かつては曹洞宗専門僧堂(修行道場)として多くの人材を輩出した禅寺である。
大沢家住宅
国指定の重要文化財。私と大沢家住宅とは、徹底して縁がないようだ。この日こそはと思って行ったのだが、『午前中、臨時休館』のつれない表示が。う~~ん。

あてが外れた客の顔が印象的。チョット真面目に見ようと思っている人には、必見の住宅なのに。

大沢家住宅(おおさわけじゅうたく)は、埼玉県川越市にある蔵造り建築。明治26年(1893年)の川越大火の焼失を免れた川越最古の蔵造りで、現存する関東地方最古の蔵造りでもある。国の重要文化財の指定を受けている。現在の屋号から「小松屋」とも呼ばれている。
寛政4年(1792年)に近江国出身で呉服太物の近江屋を営んでいた豪商・西村半右衛門が建てた蔵造りの店舗建築。川越大火で例外的に焼失を免れ、そこから川越商人が蔵造りの町家を次々に建設する契機となった。昭和46年(1971年)に国の重要文化財の指定を受け、また、平成元年(1989年)より5年間を費やし大規模な修理が行なわれ、創建当時の姿に甦った。
祭り会館に展示されている山車
良い展示内容だし、説明なんだけど、…。館内の撮影可の扱いならば、、説明の合間に撮影しやすくする工夫があればと思った。
説明が終わった後は、もう少し証明を明るくしてくれると有難いのだが、暗いままだった。


