皇居周辺をぶらぶら(6)
たまたまなにもないと殺風景なので植えたのだと思うが、各種の竹が植えられている。急に竹やぶが見えるので、意表を突かれる感じだ。
キンメイモクソウ


ギンメイチク


キンメイチク

オウゴンチク

説明標識
昭和天皇のおしるしが若竹だったのか。其れを平成8(1996)年に植えたんだ。全部撮っておけば良かった。

松の廊下跡
本丸御殿は現在芝生になっている部分とほぼ同じだと思っていたのだが、そうでもないようだ。この辺も御殿の一部だったのか。




下記の日記を読んでも、細かい事情はわからずじまい。浅野内匠頭には、それ以前に高家旗本筆頭の吉良上野介に、プライドを傷つけられたと思う経緯があったのだろう。
浅野内匠頭は何故刃物を所持できたのか。それが疑問だった。吉良上野介の下で勅使饗応の最終日だったとかで、儀式用に小さ刀(ちいさがたな。礼式用の小刀で脇差とはサイズが違う)で斬りかかったようだ。そうだったのか。
激しやすい主君だと、当該の藩士は大変な運命に否応なく巻き込まれたんだ。
幕府留守居番、梶川與惣兵衞の元禄14年(1701)3月の日記から一部を引用
其後御白書院の方を見候へば、吉良殿御白書院の方より来り申され候故、又坊主呼に遣し、其段吉良殿へ申候へば、承知の由にて此方へ被參候間、拙者大廣間の方御休息の間の障子明て有之、夫より大廣間の方へ出候て、角柱より六七間も可有之処にて雙方より出会ひ、互いに立居候て、今日御使の刻限早く相成り候儀を一言二言申候処、誰やらん吉良殿の後より「此間の遺恨覺えたるか」と聲を掛け切付け申候(其太刀音は強く聞え候へども、後に承り候へば、存じの外、切れ不申、淺手にて有之候)。我等も驚き見候へば、御馳走人の淺野内匠殿なり。
上野介殿「是れは」とて、後の方へ振り向き申され候処を又切付けられ候故、我等方へ向きて逃げんとせられし処を、又二太刀ほど切られ申候。上野介其侭うつ向に倒れ申され候。其時に我等内匠殿へ飛かゝり申候(吉良殿倒れ候と大かたとたんにて、間合は二足か三足程のことにて組付候様に覺え申候)。
右の節、我等片手は内匠殿小さ刀の鍔に當り候故、それともに押付けすくめ申候。其内に近所に居合申されし高家衆、并に内匠殿同役左京殿などかけ付けられ、其外坊主共も見及候処に居合候者共、追々かけ来り取りおさへ申候。
富士見櫓
こちらでは櫓の数は19となっている。以前取り上げたとき、多聞櫓を含めて46としたが、多聞櫓を除くと20となる。どちらが正しいのだろうか?
この方向からは石落としなどは見えない。当たり前といえば当たり前だ。昔はこの本丸を死守することが最重要だったんだ。



説明書きには次のようなことが書かれてある


江戸城旧本丸の東南隅に位置する「富士見櫓」で、品川の海や富士山をご覧になったといわれています。現存の三重櫓は、万治2年(1659年)の再建で、江戸城本丸の遺構として貴重な存在といわれています。
天守閣が明暦3年(1657年)の大火で焼失した後は復旧されなかったので、富士見櫓が天守閣に代用されたと伝えられています。どこから見ても同じ形にみえるために、俗に八方正面の櫓とも呼ばれ、特に石垣上にせり出している石落し仕掛けのある南面の屋根が描く曲線はとても優美です。
石室
時代小説の格好の素材になりそうな石室だ。そこでは、どこぞへの抜け道ということになるのだろうが、実際には、貴重品などを避難させた蔵と考えるのが至当なのかなあ。本当の抜け道なのであれば、存在そのものを目立たないようにしてあったと思う。




富士見多聞北側の蓮池濠沿いにある石作りの蔵です。江戸城の遺構の中では比較的小さなもので、表の石組には焼けたような痕があり、多少ずれています。
入り口には扉を取り付けた穴があり、内部は20平方メートルほどの広さとなっています。伊豆半島産の安山岩(伊豆石)の切石で、隙間もないほどキッチリと壁が造られています。江戸城の抜け穴や御金蔵との説もありますが、場所柄から、火災などの際に貴重品などを避難させた蔵と考えられます。