皇居周辺をぶらぶら(5)
早くもロウバイが咲いていた


(旧)皇居正門石橋飾電燈
長年使われてきた6基の飾電燈は、昭和61年9月、鋳型を取って新しく鋳造されたものと交換された。取り外されたもののうち1基が二の丸庭園入り口にあった。

花菖蒲はまだまだだった



諏訪の茶屋
諏訪の茶屋は、江戸時代には吹上地区(現在の御所などのある一帯)にあった。説明によれば、この建物は、明治45年に再建されたもので、明治期の茶室風の建物として優雅な外観を持っているため、皇居東御苑の整備に当りここに移された、と書かれてある。
よくわからないのは、明治末に再建されたとき、明治の建物として建てられたのかということ。普通再建するにあたっては、昔の様式を踏襲するのではないかと思うが、徳川否定で凝り固まっていたのだろうか?



潮見坂を上って、二の丸から本丸に進む
潮見坂
平凡な坂のように見えるかもしれないがかなり急勾配の坂だ。皇居前広場近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海が見えたのか。信じられないことだが、その昔はそうだったのだろう。


本丸と二の丸をつなぐ坂道です。昔はこの坂から今の新橋から皇居前広場近くまで日比谷入江が入り込み、海が見えたのが名称の由来です。坂を下りると,三代将軍徳川家光の命により小堀遠州が造ったとされる庭園を復元した二の丸庭園があります。坂の上には、汐見坂門が設けられていました。
本丸に出た
桃華楽堂
香淳皇后さまと言われてどなたのことだかわかる方は、相当皇室に感心のある方なのだろう。私は、どなたなのかピンとこなかったが、常識的に考えれば、昭和天皇の皇后さまであることはわかる。その香淳皇后さまの還暦記念として建設された音楽堂なのか。
この本丸のエリアにわざわざ建てなくても良かったのではないかとおもう。ここは、あくまで徳川の名残で統一したほうが良かったと思う。今後、この種の建物が追加で建てられると本丸エリアが本丸エリアでなくなってしまう。

桃華楽堂は、昭和41年2月に完成し収容人員は200名の音楽堂で、音楽好きの香淳皇后さまの還暦記念として建設されました。
鉄仙の花弁を形どつた屋根と八面体の珍らしい建物で、ホール外壁のモザイク・タイルの図柄は、各面とも大きく羽ばたく鳥を抽象的に描いたものに、日月星・衣食住・風水火・春夏秋冬・鶴亀・雪月花・楽の音・松竹梅と八面の正面から左へ順に陶片であしらっています。
本丸御殿跡
本丸御殿は面積が約一万一千坪もあったのか。


本丸地区は、江戸城の中心をなし、周囲に石垣と濠をめぐらした高台で、約13万平方メートル(約4万坪)と最も広い場所です。
江戸城は、天正18年(1590年)の徳川家康入城以来、秀忠、家光の三代にわたって完成されたのですが、その当時の本丸の建物は表・中奥・大奥からなる壮大豪華な殿舎(面積約一万一千坪)が所せましとたちならんでいました。天守閣のほか、櫓が十棟、多聞十五棟、諸門二十数棟がありました。
現在は、本丸跡地として、大きな芝生の広場になっています。芝生のず~っと向こうに見える石垣が天守閣跡になります。
天守台


再建計画図面(PDF画像借用)
手書きの絵図と比較すると、最上層の屋根の向きが90度ずれている。意図して変える計画としたのだろうか?


『江戸図屏風』に描かれた元和度もしくは寛永度天守(PDF画像借用)

富士見多聞
つい先日から内部を公開するようになった。


内部はこんなふう。至ってシンプル。


EF-Mマウントの小さなレンズでもすっぱり入れることはできなかった。当然のことだろう。宮殿が丸見えになるのかと思って期待したが、そんなに景観はよくなかった。





一方通行で公開していた。こちらは出口側。


本丸御殿側を見るとこんな感じ。世が世ならば将軍の姿を見かけることがあったかもしれない場所だったんだ。

「多聞」とは、防御をかねて石垣の上に設けられた長屋造りの倉庫のことで、多聞長屋とも呼ばれていました。
鉄砲や弓矢が納められ、戦時のときには格子窓を開けて狙い撃つことが出来ました。本丸の周囲は、櫓と多聞で囲まれて万が一に備えられていました。