光明寺などを訪ねた(3)
わざわざ光明寺を見に出かけた大きな理由が内藤家墓所を見ることだった。凄い墓所なのに正直驚いた。世田谷の豪徳寺に井伊家の墓所があるが、それをも凌ぐような印象を受けた。
鐘楼
立派な鐘楼だと思ったら、総ケヤキ瓦葺きで、弘化四年(1847-48年)の建造。170年前のもの。現在の梵鐘は、昭和三十六年(1961年)、法然上人七百五十年遠忌に当たり、鋳造せられたもの。朝夕に鐘が撞かれ鎌倉市内に響き渡るそうだ。



開山堂
関東大震災で余り被害を受けなかった旧祖師堂(旧開山堂)を損壊程度が激しかった旧本堂(阿弥陀堂)の代わりに新しい本堂にしたようだ。阿弥陀堂の本尊は新しい本堂に遷座した。ということで其れまでの開山堂が本堂になってしまったので、代わりとなる開山堂が翌大正十三年、古材等も使用して新たに建てられた。そして、ときが移り、平成十四年、老朽のため再建した。以上が関東大震災後の経緯。
応急的に建てたものはしっかり造られていなかったのかもしれない。建て直されたばかりの開山堂は非常に立派。開山をはじめ歴代法主の御影を祀っている。


記主庭園と大聖閣
小堀遠州作と伝える蓮池を中心とした庭園か。立派な庭だ。



光明寺の庭園は浄土宗庭園で記主庭園とも呼んでいます。蓮池には、夏ともなれば優雅な色を持って開花いたします。七月には観蓮会(有料)が開かれ蓮を眼前に抹茶を頂きながら静かな時の流れを感じることが出来ます。庭園内に聳える大聖閣(たいしょうかく)は宗祖法然上人800年大御忌を期して建てられました。お堂の二階には阿弥陀三尊が安置され、回廊よりその尊顔を拝すことが出来ます。
「三尊五祖来迎の庭」
内藤家墓所を一刻も早く見たい。気が逸っていて、完全に見落としてしまったようだ。何と迂闊なことだろう。以下2点はPDF画像を借用。


本堂南側にあり。三尊とは、極楽浄土の阿弥陀仏とその脇士たる観音・勢至の二大菩薩を表し、五祖は浄土教を説法流布された釈尊(印度)善導(中国)法然・鎮西・記主(日本)の浄土宗五大祖師を示します。この三尊五祖が、庭園の中に石で表現されています。庭園全体の構図は、煩悩多いこの世(此岸)と救われていく彼の岸(彼岸)とを明らかに示しています。
内藤家墓所
前回及び今回の記事の冒頭に記述した通り、この寺の旧墓地には、陸奥国磐城平藩の藩主を務めた内藤家の墓所がある。いわき出身の私には、是非ともこれを見ておきたかった。扇ガ谷の薬王寺にある旧墓地には、四国の松山城主蒲生忠知公の奥方と息女のお墓がある。その奥方は、内藤家の娘。もともとは会津の藩主だった蒲生家に嫁いだのだった。
その不憫な娘を思う気持ちを家督を継いだ忠興が斟酌。妹(姉?)の墓を見守る意向があったのではなかろうか?江戸深川の霊巖寺にあった内藤家墓所を鎌倉の光明寺に移設。凄い墓地である。高さ3mにも及ぶ大宝篋印塔がズラリと並ぶさまはまさに壮観。












松壽院と梅嶺院
磐城平城主・内藤左馬助政長の七女。名前は不明。13歳で23歳の蒲生忠知に嫁ぐ。嫡男鶴松は寛永10年3歳で早世。忠知死去の際は20歳懐妊中で、男児であれば蒲生家再興を約束されたが女児を出産。この娘も12歳で死去し、梅嶺院と号す。松壽院は姑『振姫』の陽壽院の壽を用いて号したと伝えられる。
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陸奥国磐城平藩のち日向国延岡藩の領主内藤家歴代の墓所で、歴代藩主の多くやその正室など200基以上の石塔が立つ。江戸の霊巌寺から移されたものである。