兵庫~滋賀~京都(18)
勅使門 登録有形文化財
勅使門に関しては前回までは内側のみをを見ていただいていた。遅ればせながら、表側を見ていただく。こちらが表側だ。勅使参向のとき、勅使がこのあたりに立ったのか。
勅使とは、天皇・皇帝・王など国の元首が出す使者のこと。勅使は天皇の代理としての資格を以って宣旨を伝達することから、勅使を迎える者が、たとえ官位において勅使よりも上位であったとしても、天皇への臣礼同様、敬意を払うこととされたとのことだ。そのため、このような豪華な門が用意されたのか。
壮麗さは並み居る国指定重要文化財を遥かに凌駕するものだと思う。

大正2年(1913年)竣工。設計は京都府技師であった亀岡末吉。檜皮葺屋根の四脚唐門で前後を唐破風、左右の屋根を入母屋造としています。また、鳳凰の尾羽根や牡丹唐草、宝相華唐草文様や幾何学紋様など、細部にまで見られる彫刻装飾は、伝統的和様に亀岡独自の意匠を取り入れたもので、斬新かつ見応えがあります。
中門 国指定重要文化財
1641-1645年建立。寛永年間に徳川幕府の寄進で建てられた一連の建造物の一つ。見た感じ、しっかりは造られているが、是非とも国指定重要文化財として扱うほどの感じには見えない。一連の建造物の一つとして、おまけで指定された感じがしてしまう。
ある方のブログに、左側に多聞天像、右側に持国天像が納められていると書かれてあった。下記、仁和寺の説明では、左側に西方広目天像と右側に東方持国天像と言うことになる。左側は多聞天像のように見えるが、間違っているのかなあ。







二王門と金堂の中間に位置し、五重塔や観音堂といった伽藍中心部に向かう入口ともいえる門。切妻造・本瓦葺・柱間三間の八脚門で、側面の妻部には二重虹梁蟇股が飾られています。また、向かって左側に西方天、右側に東方天を安置します。
五重塔 国指定重要文化財
1644年建立。寛永年間に徳川幕府の寄進で建てられた一連の建造物の一つ。その内で、徳川家光が威信を見せるべく注力したのは、二王門と五重塔ではないかと私は思っている。


初重西側には、大日如来を示す梵字の額が懸けられている


寛永21年(1644年)建立。塔身32.7m、総高36.18m。東寺の五重塔と同様に、上層から下層にかけて各層の幅にあまり差が見られない姿が特徴的です。初重西側には、大日如来を示す梵字の額が懸けられます。
塔内部には大日如来、その周りに無量寿如来など四方仏が安置されます。中央に心柱、心柱を囲むように四本の天柱が塔を支え、その柱や壁面には真言八祖や仏をはじめ、菊花文様などが細部にまで描かれています。
御室桜
ここが御室桜の林。遅咲きで、背丈の低い桜だ。が、開花した画像がなければイメージしにくいことだろう。


PDF画像によれば、このように咲くようだ。

毎年春、仁和寺は満開の桜で飾られます。金堂前の染井吉野、鐘楼前のしだれ桜などが競って咲き誇ります。その中でも中門内の西側一帯に「御室桜」と呼ばれる遅咲きで有名な桜の林があります。古くは江戸時代の頃から庶民の桜として親しまれ、数多くの和歌に詠われております。
九所明神本殿 国指定重要文化財
1641-1645年建立。仁和寺の解説文によれば、九所明神は本殿・左殿・右殿の三棟からなる。本殿が国指定の重要文化財であると記されてある。そうすると、左殿・右殿の2棟はその扱いを受けていないように解釈できないこともない。
国指定文化財等データベースでは、紛らわしい書き方であるが、解説文には、仁和寺全体としての中に、『九所明神本殿は三殿からなり、中殿が一間社流造、左右殿は四間社流見世棚造である』とある。三殿ともに含まれているようだ。国の書き方では、中殿・左殿・右殿の三殿で構成される『本殿』という認識なのだろう。
ところが仁和寺の呼び方では、本殿・左殿・右殿の三棟からなる。国指定の重要文化財の名称は『九所明神本殿』とあるから、真ん中の棟のみが重要文化財のように見えなくもない。実に紛らわしいのだ。



この説明板では、九所明神の全体が国指定重要文化財になっているように読める。この表記が一番素直に読むことができる。このような表記に統一したほうが良いように思った。


九所明神拝殿

仁和寺の伽藍を守る社。社殿は本殿・左殿・右殿の三棟あり、八幡三神を本殿に、東側の左殿には賀茂上下・日吉・武答・稲荷を、西側の右殿には松尾・平野・小日吉・木野嶋の計九座の明神を祀ります。
九所明神の最古の記録は『御室相承記』に、建暦2年(1212年)に境内南にあったものを東に遷宮した事が書かれています。現在の建物は寛永年間に建立されたものです。