兵庫~滋賀~京都(9)
多宝塔
文化財の指定は無し。昭和8年建立、銅板葺、高さ約18m。普段は非公開で、5月と10月の特別公開時には、多宝塔内部と、平安時代に造られた国宝の本尊・五大虚空蔵菩薩像が公開されるそうだ。前回取り上げた金堂と同じ時期に同じ人物である実業家の山口玄洞氏の寄進で建てられた。
鐘楼や金堂よりも少し高い位置に建っていて、金堂を見守っているかのようだ。





金堂から見た五大堂(手前側)と毘沙門堂(奥側)
どちらも元和9年(1623年)の建築。神護寺の沿革史によれば、世は南北朝に分かれての戦乱となり、神護寺も天文年中(1532~55)には、兵火によって建物のすべてを焼失した。慶長五年(1600)にその窮状を陳情し、それに対し翌年七月、徳川家康より旧来の寺領千五百町歩が返還された。更に、元和元年(1615)に讃岐屋島寺の龍厳上人が入山し、上人に帰依する京都所司代板倉勝重が奉行となって再興に着手する。という流れだそうだ。それが元和9年の建築に結実したのだ。394年前に再建した建物になる。それでも国指定の重要文化財の指定を受けていない。そういうものなんだ。

五大堂 京都府指定文化財
金堂へと上る石段の下に建つ。入母屋造の三間堂。元和9年(1623年)の建築。毘沙門堂や鐘楼も同じ年の再建。元は講堂だった。堂内には五大明王(不動・降三世(こうさんぜ)・軍荼利(ぐんだり)・大威徳(だいいとく)・金剛夜叉(こんごうやしゃ)が安置されている。



毘沙門堂 京都府指定文化財
五大堂の南に建つ。入母屋造の五間堂。金堂が建つ前はこの堂が金堂であり、本尊の薬師如来像もここに安置されていた。金堂を寄進した実業家の山口玄洞氏の気持ちがようやく理解できた。金堂と称するにはちょっと建物が小さすぎるというものだ。
あまり大きくはないにせよ、風格がある堂宇に見えるのは、当然のことだったんだ。元和9年(1623年)の建築。内部の厨子に平安時代の毘沙門天立像(重文)を安置する。




大師堂 国指定重要文化財
毘沙門堂の西側に建つ入母屋造、杮葺きの住宅風の仏堂。空海の住房であった「納涼房」を復興したもので、現存するものは近世初期の再建である。内部の厨子に正安4年(1302年)作の板彫弘法大師像(重文)を安置する(大師像は秘仏で、11月1日-15日のみ開帳)。


明王堂
神護寺には空海の作という不動明王像があったが、939年(天慶2年)に平将門の乱が起こると、将門調伏のために下総国へ運ばれ、京都広沢の遍照寺・寛朝僧正を導師として御祈祷がなされたという。
その後、乱が鎮まると寛朝を開山として成田山新勝寺が建立された。
現在神護寺に安置されている不動明王像は、平安時代中期頃の作と考えられているが、平将門の乱を鎮めるために下総国へ下った不動明王像との関係は不明。
護摩法要が月1回行われることから護摩堂とも呼ばれる。そのときは前の扉が開けられるそうだ。
1623年(元和9年)龍厳上人により再建。しかし、同じ年に再建された五大堂、毘沙門堂、鐘楼は京都府指定文化財なのに、こちらはそうなっていない。その差は何だろうか?
最後に見た境内案内図
和気清麻呂公墓と文覚上人墓とはあることは知ってはいたが、相当大変そうなので当然のことながら棄権。行き先指示もなかったように思う。地蔵院は興味がなく行かなかった。
文覚上人はこの寺院でも大きな働きをした高僧だったが、鎌倉時代初期の歴史でも欠くことのできない人物だった。この人物の足跡をたどるのも面白いことかもしれない。

帰り際
最後の最後になって楼門がスッキリ見えだした

参道の階段を下る家族

本坊
この寺の僧侶はここに詰めているんだろうか。書院もチラと見えそうな感じだったが、覗くのは端ないからやめておこう。


こんなものも掲示されてあった。思わず友人と唱和してしまった。

次は栂尾山高山寺に向かう。