兵庫~滋賀~京都(2)
明治時代初期の廃城令に伴う破却を免れ、天守が現存する。天守等2棟が国宝、櫓、門、馬屋等5棟が国の重要文化財に指定されている貴重な文化遺産だ。天守が国宝指定された五城の一つ。
写真展を見に行ったお礼にこちらを案内していただいた。有難い話でお誘いに応じさせていただいた。何回かに分けて見た順番に取り上げていきたい。
国宝の天守閣
廃城による取り壊しを回避し、戦災にも遭わず、410年前の姿を現在にとどめている。形は小さいが男性的な天守閣だ。その分、階段が急勾配になっている。覚悟して上る必要がある。彦根35万石といわれるが、天守は18万石の頃の完成だそうだ。画面に写っている大部分が『天守』。確認しなかったが、奥右側に突き出しているのが『附櫓』で、そこにつながっている右端の櫓が『多聞櫓』だと思う。『附櫓』と『多聞櫓』とで1棟と数えるようだ。

彦根城案内図

彦根城の復元模型
天守閣よりも御殿の方により興味がある私には、御殿が残っていないのは非常に寂しい。『本丸御殿』はかなりこじんまりしたものだったようだ。普段の用向きは、殆ど全てを『表御殿』が果たしていたのだろう。

表御殿発掘調査遺構全図

京橋口駐車場に駐車し、京橋を渡って表門橋まで歩いていったが、もっと近い駐車場があったようだ。だが、あとで昼食をとることを考えれば、この駐車場がベストだったかもしれない。
旧西郷家屋敷長屋門
家老西郷家屋敷の長屋門だそうだが、ものすごい長屋門だ。大藩の家老職の家だとしても、このように巨大な長屋門の必要はなかったはずだ。もしかしたら、曲輪のような役目をも果たしていたのだろうか?


二の丸佐和口多聞櫓(重要文化財)
遠目に見た時は、後年に建造した観光用の施設かと思っていたが、近づいてみると、本物の櫓だとわかった。それも国指定の重要文化財。きちんと見ておくのだった。
二の丸はもう少し本丸に近いところにあると思っていたが、この位置だったのか。江戸時代初期の特上だから良いものの、戦国時代だとかなり厳しい位置になったことだろう。すぐ近くに馬屋(重要文化財)もあったんだ。う~~ん。

こちらは、現在開国記念館として使われている部分のようだ。PDF画像借用

いろは松から彦根城を訪れる時、最初に出逢う櫓。左手に見える櫓は明和8年(1771年)に再建されたものです。現在、重要文化財に指定されています。
手前は昭和35年(1960年)に再建されたもので、現在は開国記念館として使われています。
馬屋(重要文化財)
馬屋が国指定の重要文化財か。昭和43年に解体修理された際に、以前の柿葺きの屋根に戻したのか。う~~ん、時間がないから仕方がなかったが、きちんと見ておくのだった。
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元禄時代(1688〜1703)に建てられ、常に十数頭の藩主用の馬がつながれていました。
昭和43年に解体修理されたこけら葺きの屋根が美しく、城内に残る馬屋は彦根城だけです。
明和(1764〜1771年)のころ、火災により類焼。修理されましたが、こけらぶきの屋根は棧瓦(さんがわら)ぶきに変えられました。昭和48年解体修理の時、もとのこけらぶきに復元されました。
表門橋
当然のことながら木製の古色蒼然たる橋


表門山道
いきなり急勾配の山道だ


暫く行くと、国指定重要文化財の天秤櫓が見えてくる。現金なもので、こういうものが見えてくると俄然やる気が湧いてくる。


天秤櫓に通じる廊下橋の下を潜る

廊下橋の下を潜ったら左折して少し石段を上る。その辺りから振り返って天秤櫓を見た様子。結構すごい眺めだ。

廊下橋
天秤櫓と鐘の丸とを結ぶ木製の橋。元来は、橋に覆い屋根と壁がつけられていた事から、廊下橋の名で呼ばれているそうだ。規模はまるで違うがヴェッキオ橋のようなものか。いや、どちらかと言えば、マディソン郡の橋のようなものだったのかもしれない。非常時には落とし橋となる仕掛けだ。

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鐘の丸虎口石垣


天秤櫓(1) 国指定重要文化財
確かに天秤のような形状の櫓だ。秀吉が創築した長浜城大手門を移築したのか。う~~ん。



江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城(標高50m)である。山は「金亀山(こんきやま)」との異名を持つため、城は金亀城(こんきじょう)ともいう。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。
明治時代初期の廃城令に伴う破却を免れ、天守が現存する。天守と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟が国宝に指定されるほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少である。
明治に入り各地の城が廃城令で破壊・売却されていく中、彦根城も例外ではなかった。しかし、明治11年10月、明治天皇が巡幸で彦根を通過した際に城の保存を命じたため破却は逃れたという。その際、巡幸に随行していた大隈重信が城の破却中止を天皇に奉上したという説と、天皇が近江町長沢の福田寺で小休止されたとき、住持攝専(せっせん)夫人で、天皇の従妹にあたるかね子が奉上したという説とがある。
天守が国宝指定された五城の一つに数えられる。姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストに掲載されたが、近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られている。