初冬の鎌倉(7)
護良親王が幽閉されていた土牢
9ヶ月も牢内に幽閉されていたのか。足も萎えてしまったことだろう。






祀られている人物が人物だけにこのような十六八重表菊の紋があった

本殿
土牢近くから見た様子




神苑から見た様子

鎌倉宮碑
はっきりしない画像だが、目を凝らしてもこんな風にしか見えない。碑文の内容は、明治天皇の神社創建についてのお言葉。


明治六年四月十六日、車駕鎌倉に幸し、親しく故・征夷大将軍・二品・護良親王を祭らせ給ふ。
越えて十七日、闕に還らせ給ひ、太政大臣・三條實美に勅して曰く、
「親王は皇室式微・武臣専横の日に在り、艱楚嶇嶔、遂に能く鴻業を恢復す。而して貝錦萋斐、冤を呑みて薨し給ふ。朕、之を憶ふ毎に未だ甞て歔欷して泣下らずんばあらざるなり。今、親しく遺跡を弔ひ、感慨殊に深し。顧みるに、朕、否徳、幸に泰運に膺り、大権を既墜に復す。祖宗の遺徳と股肱の力を致したるとに由るといふと雖も、亦、親王の霊、冥冥の中に翼賛したる者なしと謂ふべからず。卿、其れを表彰する所以を図れ」と。
實美、拝し稽首して曰く、
「敬みて明詔を承はる。抑、親王の忠憤義烈、身を以て国に殉ず事は史冊に具にして必ずしも称揚を待たず。惟ふに陛下の聖明、今日にして斯の挙あり。洵に是れ曠古の盛典にして、独り親王の地下に瞑目せさせ給はむのみならず、陛下の聖徳も亦、将に久遠に伝はりて泯びざらむとする也。請ふ、諸れを石に勒せむ」と。
上、曰はく、「可なり」と。
是に於て少内史・巌谷修、命を奉して其由を記し、係ぐるに銘を以てす。銘に曰く、
土窟幽暗 久しく蒿蓬に没す
昌運維れ新に 煥たる其宮あり
明主之徳 親王の忠
千秋赫奕 孰れか欽崇せざらむ
上記テキスト文は、http://www.gregorius.jp/photogallery/page_b23.htmlを参照させていただいた。
紅葉も

宇津峯神社から贈られた神石
福島県須賀川市の宇津峯山には、南朝の砦、宇津峯城があったそうだ。その縁により、鎌倉宮創建100周年を記念して、宇津峯神社から贈られた神石。3つの石は護良親王、後村上天皇、後亀山天皇に見立てられている。
都から遠く離れた東北の地においてさえも南北朝支持の豪族たちが、それぞれ争ったのか。

御構廟
何となく気味が悪い。時代が全く違うが、三島由紀夫の事件を思い出す。

護良親王の首が置かれた場所です。御首塚ともいいます。
宝物殿
護良親王像。東郷平八郎の『制機先者勝』の書も。

その他の書など



社務所前の紅葉


神木とされる小賀玉の木。招霊(おがたま)の木なんだ。鎌倉宮創建時に植樹されたらしい。
