初冬の鎌倉(6)
瑞泉寺から鎌倉宮に向かう途中に永福寺跡がある。瑞泉寺も鎌倉宮も永福寺跡も現在の地名は鎌倉市二階堂。永福寺は鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つ。二階建てだった事から二階堂とも称されたのだが、それがこの辺の地名の由来だ。
源頼朝は文治5年(1189年)9月の奥州合戦を契機に、源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊をしずめ、冥福を祈るための寺院の建立を発願。その年の12月には永福寺の建立に着手した。建立には畠山重忠ら関東の御家人の助力があった事が『吾妻鏡』に記載されている。建久3年(1192年)11月25日に本堂が完成し、落慶供養が行われた。
応永12年(1405年)の火災ののち廃絶した。
私見ではあるが、永福寺跡がこの状態では世界遺産指定には届かないのではなかろうか?『えっ、これでおしまいなの?』と感じる人が殆どではなかろうか?数万の怨霊が安住の地を保たない状態で放置されていても、痛痒を感じないのかなあ。
最初の1点は湘南工科大学作成のCGを借用した

このままでは武蔵国分寺跡と同じ。これで何を訴えたいのか、真意がわかりかねる。中途半端すぎるのでは。






永福寺跡を取材したはまれぽの記事にjump
鎌倉宮(1)
鎌倉宮は、神奈川県鎌倉市二階堂にある神社。護良親王を祭神とする。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。神社本庁の包括下には当初から入っていない単立神社。別名大塔宮(おおとうのみや)。
祭神である護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博によって殺められた。
武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治2年(1869年)2月、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じた。7月15日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営された。
明治6年4月16日に明治天皇は鎌倉宮を行幸。同年6月9日に鎌倉宮は官幣中社に列格された。
以上のような次第で、鎌倉宮は天皇自らが創建した唯一の神社だそうだ。
参道


拝殿
四方に壁がない吹き放しの舞殿形式のもの。どうも祭神そのものではなく獅子頭を拝んでいるようで、有り難みが薄れる感じだ。



獅子頭守り
兜の中に獅子頭のお守りを忍ばせていたのか。毛がふさふさしていれば、痛くはなかったかなあ。


祭神の護良親王が戦のときに、兜の中に獅子頭のお守りを忍ばせていたのが由来です。
村上社と村上義光像(撫で身代わり様)
部下の鑑なのかなあ。そこまでするのかなあ。像は樹齢100年超のケヤキの木を彫ったものだそうだ。



ここからは有料のゾーン
本殿が見えてくる



南方社
小さな社殿は、南方社だ。鎌倉宮には、2つの境内社があるが、その一つ。護良親王とともに鎌倉に下り、親王に仕えた藤原保藤の娘南の方を祀っているそうだ。現代風に言えば内縁の妻だけど、相手が雲上人。南の方は妙法寺中興開山の日叡の母。日叡は、護良親王と南の方との間の子だ。妙法寺に墓がある。

本殿の裏側
土牢の前の様子。小奇麗にしてある。
