初冬の鎌倉(5)
長くなってしまったが、瑞泉寺は今回まで。最後なので、内容を少し充実させたかったが、思うに任せなかった。
瑞泉寺庭園
あまりにも有名な庭園だ。瑞泉寺庭園は、長年に亘って地中に埋もれた状態にあった。その経緯は不明のようだが、方丈の裏手にはそうした庭園があるということは語り伝えられてきていた。存在は十分に認知されていたようだ。
貞享2(1685)年に刊行された『新編鎌倉志』にも記載されている庭園が、わずか300年弱の間に地中にすっぱり埋まってしまったようだ。そんな短期間に通常ならば埋まるものではないと思う。然らば何が原因?
私が勝手に想像するのは、下記のような湘南地区を襲った地震による山崩れによる埋没だったのではないかと。
1703(元禄16)元禄地震 M7.9〜8.2
1782(天明 2)相模湾地震 M7.0
1854(安政 1)安政東海地震 M8.4
1923(大正12)関東大震災 M7.9
それを、昭和44(1974)年から45(1975)年にかけて発掘し復元したのだ。その姿を見て、何を思うか。『何だこんなものか』などとは、間違っても口にしないほうが良かろう。





庭園はこちら本堂や庫裡の裏側から見るのが一番なのだと思う。拡大してみると『侍真』と書かれた木の板が掲げられていた。『侍真』とは、禅宗寺院で開山の真影を扱う僧侶のことを言うようだ。

開山堂の裏手では、彼らも庭園を見入っていた

夢窓疎石の作と伝えられる本堂(仏殿)背後の庭園は、1970(昭和44)~1971(昭和45)年にかけて発掘され、復元されました。橋をわたり、十八曲がりと呼ばれる石階を上ったところに偏界一覧亭という小さな建物があります。ただし、現在、十八曲がりは立ち入り禁止。偏界一覧亭は非公開です。
開山堂
堂内には国指定の重要文化財『木造夢窓疎石坐像』が祀られている。よほど大事にしているのだろうか、板塀で見えないようになっている。そこには、五七桐紋があしらわれている。五七桐紋は、後醍醐天皇から足利尊氏へ、足利義輝から織田信長へ、正親町天皇から豊臣秀吉へ下賜されているようだ。この場合は、初代鎌倉公方の足利基氏が夢窓疎石に帰依して瑞泉寺を中興したので、その紋を意味するのだろう。


地蔵堂
『どこも苦』か。我々も十分認識しなくてはいけないことかもしれない。




本堂の前を過ぎて左手に進むと、地蔵堂があります。もとは鎌倉でも西北寄りの智岸寺ヶ谷の智岸寺地蔵堂にあり、のち鶴岡八幡宮正覚院に本尊とされていた「どこも苦地蔵」が安置されています。
石段(復路)
ゆっくり、紅葉を愛でながら下りたかったが、肝心の紅葉がまだ不十分だった。残念。











