晩秋を迎えようとする三渓園(3)
雰囲気のある道が続く。が、ちょっとアップダウンがあり、真面目に園内をもれなく回ろうとすると、最後はかなり草臥れるかもしれない。
一旦上った丘から一挙に下りてくる感じ。何気ないようだが、妙に落ち着く感じになっている。



聴秋閣【重要文化財】1623年(元和9年)建築
臨春閣と聴秋閣。三渓園の主要な建物が向かい合っている。こちらは、背後を崖に囲まれていて、虫の声が間断なく聞こえてきそうだ。また、楓の木もたくさん植えられていて、聴秋閣というネーミングが適しているように思う。
建物はかなりユニークな形状だ。それを愛でたい。






徳川家光が二条城内に建て、後に春日局が賜ったと伝わる建物。各部の意匠は独創性・変化に富みますが、書院造としての格や茶亭としての機能に応じて緻密に構成されています。L字型の一段下がった杢板敷きの入口は舟で漕ぎ着ける場を想像させ、当初は水辺に面して建てられたのかもしれません。江戸時代はじめの上流武士階級の風流な文化が伝わります。この建物は江戸時代の武士佐久間将監の作と伝わります。小堀遠州と同時代に幕府の造営・修繕に関わる作事方を務めた人物で両者とも茶の湯に深く似た境遇であったため、遠州はライバル的存在であったのかもしれません。この建物から将監の挑戦・意欲が伺えます。
以下の2つの建物は茶室。園内には、この他に、前回取り上げた金毛窟とまだ取り上げていない林洞庵と横笛庵と、合計5つの茶室がある。季節的なものなのか、お茶会が行われていて華やかだった。
その他にも茶室を備えてある建物もいくつか。聴秋閣もその例だろう。
春草廬【重要文化財】桃山時代建築
織田有楽斎の茶室は国宝に指定された茶室『如庵』もある。そちらとこちらとでは、どこに差があるのだろうか?
横道にそれるが、如庵という庵名は有楽斎のクリスチャンネーム「João」または「Johan」から付けられたという説もあるようだ。う~~ん、ヨハネだったのか。







三畳台目(さんじょうだいめ)の小間茶室は、織田有楽斎の作品と伝えられています。
春草廬は、茶室内に九つの窓があることから、かつて"九窓亭"と呼ばれていました。 多くの窓を持つもので、華やかな茶室です。
蓮華院 1917年(大正6年)建築
茶室を作り過ぎと思わないでもないほどだが、当代切っての粋人としては、自らの手になる茶室にこだわらないわけにはいかなかったのだろう。前回取り上げた金毛窟より1年前に建てた。
下記の三渓園の説明文。読み飛ばせば何ということはないのかもしれないが、土間の中央にある太い円柱と、その脇の壁にはめ込まれている格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材。蓮華院という名は、三溪が茶会を催した際に広間の琵琶床に、奈良東大寺三月堂の不空羂索観音が手に持っていた蓮華を飾ったことに由来。えーっ、そんなことが可能だったの、と思うようなことがサラッと書かれてある。




もとは、現在の春草廬の位置にありましたが、第二次世界大戦後に竹林にある茶室という構想のもとに現在の位置へ再築されました。二畳中板の小間と六畳の広間、土間からなっています。土間の中央にある太い円柱と、その脇の壁にはめ込まれている格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材と伝えられています。蓮華院という名は、三溪が茶会を催した際に広間の琵琶床に、奈良東大寺三月堂の不空羂索観音が手に持っていた蓮華を飾ったことに由来しています。