北鎌倉駅から鎌倉駅まで歩く(5)
こちらには、駿河大納言徳川忠長公の供養塔がある。記憶力の良い方は、東慶寺の書院が徳川忠長公の旧宅を移築したものだと記述したのを覚えておられるかもしれない。その徳川忠長公の正室であった松孝院の援助で、勢いを失っていた当時の夜光寺を日達が再建したのか。
徳川に嫁いだ織田の姫様も、悲運に泣いたようだ。この世は思うに任せぬものだとつくづく思わさせられた。
また、松山城主だった蒲生忠知公の奥方と息女のお墓もこの寺にあったのか。悪いことをしたわけではなかったが、嫡男の早世と一縷の望みを掛けた末子が娘であったことで、お家断絶か。これまた、身につまされる話だ。
ご本尊を拝謁したかったが、あいにく葬儀の準備中で目の前に棺が置かれてあった。ウロウロするのはまずいと判断し、ご本尊を拝謁せずに辞去した。その御本尊は、日蓮聖人坐像。第11代将軍徳川家斉の命によってつくられたもの。現在の東京都豊島区目白にあった鼠山の感應寺に祀られていたもので、像内には将軍の遺骨が納められている。その後、感應寺は天保の改革で廃寺処分となり、祖師像は薬王寺に安置されたとのことだ。そのくらい、江戸時代には格式のある寺院だったようだ。
こんな感じに見えてくる
歴史ある寺院のイメージからはちょっと意外にも思える佇まいだ






駿河大納言徳川忠長公の供養塔
誰の目にも入る位置にあることはあるが、家光と次期将軍の座を争った御仁の供養塔がこんなものとは。その昔は、五重塔(徳川忠長供養塔)が建てられていたのだが、享保5(1720)年の火災で焼失してしまい、この供養塔のみが残るだけか。諸行無常。

四国の松山城主蒲生忠知公の奥方と息女のお墓
あの会津の名君蒲生氏郷公の孫である蒲生忠知公の奥方(松壽院)と息女(梅嶺院)のお墓か。松壽院は、磐城平藩主の内藤左馬助政長の七女。跡継ぎになる嫡男を早世させてしまい、忠知公急死の際は懐妊中で、男児であれば蒲生家再興を約束されたが女児を出産。無念にも蒲生家断絶となる。松壽院の出自である内藤家の墓は、材木座の光明寺にある。陸奥磐城平藩の第3代藩主内藤義概公のときに霊厳寺から移したそうだ。叔母に当たる松壽院を見守る意味合いがあったのだろうか?
う~~ん、福島の閨閥も悲しい運命を辿ったんだなあ。蒲生家断絶の経緯をこんなところで確認するとは、…。


観音堂
元は釈迦堂で、この寺の見どころの一つということだが、私にはどこが見どころなのかよくわからなかった


除夜の鐘が響く梵鐘と鐘楼
鐘つき後、祈祷が受けられるのだそうだ。

かつては、梅嶺山夜光寺と称し、真言宗の寺院であった。永仁元(1293)、日蓮の弟子日像により、日蓮宗に改宗した。寛永年間(1624年-1645年)、徳川忠長室松孝院の援助で不受不施派の僧日達が再建し、大乗山薬王寺と改称した。1720年(享保5年)の火災で、五重塔(徳川忠長供養塔)など諸堂を焼失する。1842年(天保13年)天保の改革にて廃寺となった感応寺の祖師像を移設する。
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松孝院殿が夫の不遇な人生、悲惨な最後に悲歎やるかたなく、時の当山第三世恵眼院日珖上人に供養を懇願。
追善供養のために莫大な金子と広大な土地を寄進し、三千坪の境内に七堂伽藍を造営したが、享保5年(1720年)に焼失。
岩船地蔵堂
こちらも悲しい話だ。権力を我が手中に収めたいという頼朝の気持ちは分からぬでもないが、そのためには弟も娘婿も殺害してしまう異常さ。あまりに多くの恨みを買い、永福寺をそういった人たちの霊の鎮魂のために自身が建てたにもかかわらず、怖くて立ち寄ることができなかったとか。どうにも好きになれない人物だ。
大姫は一途な女性だったようだ。



扇ガ谷の、昔は亀ヶ谷と呼ばれていた地に頼朝の娘、大姫の供養堂があります。現在は海蔵寺の管理となっています。源頼朝の人質となっていた木曽義仲の子・義高に恋した大姫でしたが、木曾義仲は父・頼朝に討たれ、人質の義高もまた殺されます。大姫は、母・北条政子の必死の努力にもかかわらず、深い悲しみから20歳でこの世を去ってしまいます。木造と石造ひとつずつの地蔵尊が祀られており、見られるのは木造のみです。
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大姫の婿となった義高(清水冠者)は、木曽義仲の長男。
1183年(寿永2年)に挙兵した木曽義仲は、源頼朝と対立したが、長男義高を人質として差し出すことで和睦した。義高は、名目上、大姫の婿ということで鎌倉に送られてきている。
大姫も義高に懐き幸せに暮らしていたが、1184年(元暦元年)正月、頼朝の命によって上洛した源義経らに父義仲が討たれた。頼朝は子の義高も殺そうとしたが、それを察知した大姫は、義高に女装させて逃がしたといわれている。
しかし、義高は、頼朝が派遣した堀親家によって、武蔵国入間川で殺害された。常楽寺裏山の木曽塚は、義高の墓と伝えられている。