川越の街を歩く(2)
慈眼堂(国指定重要文化財)
正保2年(1645年)建立。慈眼大師天海を祀る。厨子に入った天海僧正の木像が安置されている。何と三代将軍家光の命に依り、この堂を建てたという。天海僧正の評価が異常に高かったことがわかろう。出羽三山の中興の祖で、後に新島に遠島になった第五十代別当の天宥法印が、天海僧正の威光に縋ったという事情もわからないでもない。


客殿(重要文化財)
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書院(重要文化財)
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庫裏(重要文化財)
寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵以外の伽藍を焼失するが、翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築した。これが今に残る客殿、書院、庫裏だそうだ。これらを運ぶために新河岸川の舟運が開かれた。そうだったのか。
写真撮影禁止だし、天気が崩れないうちにめぼしいところを廻りたい思惑があったので、今回は外側の写真を数枚撮っただけ。順路表示に従って見ているうちに、方向音痴の私は毎回位置関係がわからなくなってしまう。心配だったので、境内マップで確認済み。
慈恵堂と客殿とを繋ぐ渡り廊下。この裏側が、紅葉山庭園。


紅葉山庭園(PDF画像を借用)
右端の建物が、客殿。中央の落葉している樹木が三代将軍お手植えの桜だろうか。

渡り廊下で客殿とつながる慈恵堂

見えている建物が庫裡。その左に屋根が少し見えるのが客殿であり、「徳川家光誕生の間」がある。庫裡の裏側には、書院があり、「春日局化粧の間」がある。

五百羅漢
今回は、これもパス。2013.05.29撮影分の一部写真を使用。砂岩に彫ったようで、苔むしていて、非常に見えにくくなっていた。そのことが残念だ。







次の2つは明治維新より以前は、喜多院の境内にあった密接不可分の神社だった。しかし、新政府の神仏分離の政策に従い、それぞれ独立した。
仙波東照宮(国指定重要文化財)
日光・久能山とならび、三大東照宮とされる仙波東照宮。『三大○○』と称せられるものが数多くあるが、三番目は、意外に『何だっけ』というものが少なくない。此処もそうかもしれない。
家康は元和2年(1616)4月17日、75歳で駿府城内で死去する。死後、遺体は一旦久能山に葬られた後、遺言に依って、元和3(1617)年、2代将軍秀忠は亡父家康の遺骸をあらためて日光に移葬した。同年3月15日出発し、同23日、その途中、仙波喜多院の大堂(薬師堂、のちに東照宮本地堂とも言いました)に到着した。ここで天海僧正自らが導師となって、3月26日までの4日間、衆憎を集めて、丁重な法要を厳修したのだそうだ。
簡単にいえば、このことを記念するのが仙波東照宮だ。ということで、日枝神社と違って、神社としては、途中からの割り込み組と言えよう。
日祭日には開門するようだ。この日は閉門されたままで、残念。仕方がないので、2013.05.29撮影の一部写真を使用。














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日枝神社(国指定重要文化財)
こちらが創建時から無量壽寺(喜多院はそのうちの一つで北院だった)の鎮守の神社だった。
正面からは拝殿しか見えないので、後方から本殿を撮ってみた。何と赤坂日枝神社の本社に当たるそうだ。それは喜多院が徳川とのつながりを持つはるか以前の文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城の際に、この川越日枝神社から分祀したからだ。そういうことか。昔から、有名な寺院であり、神社であったんだ。いまは、喜多院は観光的には有名な寺院であるが、喜多院・日枝神社ともに宗教的にはどういう位置づけなのだろうか。う~~ん。







日枝神社(ひえじんじゃ)は、埼玉県川越市小仙波町の神社。旧社格は県社。もともと喜多院の境内にあったが、県道建設のため大正時代に仙波古墳群という前方後円墳を開削して喜多院門前に移転した。
円仁(慈覚大師)が喜多院を創建(天長7年・830年)したおりに、その鎮守として貞観2年(860年)に坂本の日吉大社を勧請したものであるといわれている。東京赤坂の日枝神社(旧官幣大社)は、文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城の際に、この川越日枝神社から分祀したものである。(赤坂日枝神社もそう記述している)
本殿は朱塗りの三間社流造、銅板葺で国の重要文化財に指定されている。拝殿は老朽化が深刻だったため、近年、新拝殿が再建された。