横浜の山手町を歩く(2) 2016.09.17 22:03追記&記述内容修正
ここは横浜市の所有物件ではなく、館内に入場するには料金が必要。都会の狭小住宅と比較しても引けをとらないくらいのかなり小さな洋館。元の住人はどのように利用していたのだろうか。トイレも浴室もないように見えるので、隠居用の建物だったのだろうか。『和洋併設型住宅』とされているから、1階一間は洋間で、2階一間は畳敷きの洋館だったのかもしれない。
そう思ったのだが、実際は私の勘違いだったようだ。建物は明治42年に建造された『和洋併設型住宅』の洋館部分に過ぎなく、これと繋がった形の和館の部分があったようだ。だとすれば、トイレや風呂などの共用部分はそちらに置くことが出来たのだろう。


山手資料館は、明治42年に建造された、横浜市内に残る唯一の「和洋併設型住宅」木造西洋館。館内には、チャールズ・ワーグマンのポンチ絵や、ジェラールの西洋瓦等、文明開化当時をしのばせる展示品など、居留地だった頃から関東大震災までの横浜や山手に関する資料を展示しています。横浜市の歴史的建造物に指定されています。
庭に展示してある本物のガス灯。このガス灯自体はそれほど古いものではない。建物に付随していた設備ではなかったと断言できる。

明治期の獅子頭の水道共用栓

こちらが所有者の店舗


カトリック山手教会墓地
白いクリプタの後方の一段下がった敷地にも墓地が続く。外国人墓地と隣接してはいるが、外国人墓地ではない。

山手聖公会
1931年に現在の礼拝堂竣工。もう既に85年が経過しているのか。もっと新しそうに見えるが、大谷石の特性かもしれない。内部は空襲と放火とで焼失という悲劇を繰り返したが、石造りの建物は支えが無くなってもしっかり持ち堪えた。実に頑丈なものだ。


モデルを志願したわけではなかろうが、欧米系の女性が一生懸命眺めていた。景観の内と考えて一緒に撮ってみた。


横浜山手聖公会は、神奈川県横浜市中区にある日本聖公会の教会堂である。プロテスタント・日本聖公会横浜教区に属する教会で、外形は大谷石を使ったノルマン様式の聖堂をもつ。
山手234番館(Bluff No.234)
関東大震災後の外国人の住宅事情に資するために建てられた共同住宅。山手資料館ほど狭小ではないが、1-2階に2世帯ずつ4世帯分のアパートメントハウスか。合理的かつコンパクトにまとめた設計は、現在の狭小マンションのお手本のような住宅かもしれない。お向かいのエリスマン邸は移築された物件だが、こちらは当初からこの位置に建てられた。





テーブルコーディネート 「十五夜のお月さま~月光(げっこう)~」





SINGERのミシン。使用不能の状態だった。あとからこの部屋にふさわしい物を見繕っておいてあるのだろうが、もう少し状態の良い物を置くべきだと思う。夢が萎んでしまう感じだった。


どうせなら、ドルフィンを撮ればよかったのに。ドルフィンではポスターに仕立てるのが難しいかなあ。


SINGERのミシンとヤマハのオルガンは我が家にもあった。ミシンは使用可能だったが、オルガンは少し調子が悪かった。器用だったら、ライティングビューローにでも改造したいくらいだったが。




昭和2(1927)年頃に外国人向けの共同住宅として、現在の敷地に建てられました。ここは関東大震災の復興事業の一つで、横浜を離れた外国人に戻ってもらうために建設された経緯があります。設計者は、隣接する山手89-6番館(現「えの木てい」)と同じ、朝香吉蔵です。
建設当時は、4つの同一形式の住戸が、中央部分の玄関ポーチを挟んで対称的に向かい合い、上下に重なる構成をもっていました。3LDKの間取りは、合理的かつコンパクトにまとめられています。また、洋風住宅の標準的な要素である、上げ下げ窓や鎧戸、煙突なども簡素な仕様で採用され、震災後の洋風住宅の意匠の典型といえます。
第2次世界大戦後の米軍による接収などを経て、昭和50年代頃までアパートメントとして使用されていましたが、平成元(1989)年に横浜市が歴史的景観の保全を目的に取得しました。平成9(1997)年から保全改修工事を行い、平成11(1999)年から一般公開しています。