出羽三山を尋ねる一泊バス旅行(4)
出羽三山神社(3)
蜂子神社(並んだ左側は「厳島神社」)
蜂子神社
表参道石段の終点鳥居と本殿の間の厳島神社と並ぶ社殿。出羽三山神社御開祖・蜂子皇子を祀っている。一瞬、『蛭子神社』と読み違えてしまった。蜂子皇子を祀る有難い社殿だった。


蜂子神社の創建は元和5年(1619)、当時の羽黒山別当だった宥俊が開山堂を建立し羽黒山修験の開祖である蜂子皇子の尊像を祀ったのが始まりとされます。蜂子皇子は崇峻天皇の第三子と生まれましたが、当時は蘇我氏の台頭などで朝廷内が不安定(崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺されるなど)な状態だった為、推古元年(593)に日本海を北上し難を逃れました。皇子が庄内の由良港に上陸した時、一羽の烏(三本足)に導かれ羽黒山に登ったとされ、その後、羽黒大神を勧請し、次いで月山、湯殿山と開山しました。社殿の建立年は手元に資料がなく分かりませんが、宝形造り、銅板葺き、桁行3間、梁間4間、正面1間軒唐破風向拝付、外壁は真壁造、板張り素地、組物や彫刻など凝った造りで、花頭窓があるなど寺院建築の特徴を備えています。木鼻には通常、獅子や象、龍ですが、蜂子神社では鳥(烏?)が彫りこまれ、蜂子皇子の由来に縁のあるものにしたと思われます。建物の形態から神社風に改修しているようですが神仏習合時代には羽黒山の開山堂で、明治時代初頭に発令された神仏分離令により蜂子神社に改称しています。蜂子神社社殿は貴重な存在で平成17年(2005)に鶴岡市指定有形文化財に指定されています。内部に安置されている木造蜂子皇子御尊像は元々五重塔に安置されていましたが元和5年(1619)に開山堂の本尊として移されました。神仏分離令が発令され出羽三山でも仏教色が廃されると、廃仏毀釈を恐れ仏教色の強い尊像は社殿奥に隠され、そのまま秘仏となっています。毎年8月21日の例祭には社殿の前に護摩壇を設け山伏達が大柴燈際を行い天下安寧の祈願します。蜂子皇子の墓所は出羽三山神社境内にあり現在も宮内庁によって管理されています。
厳島神社
蜂子神社と並んで設置されている理由は、私にはよくわからない。下記の説明文を参照されたい。それにしても、見事な彫刻が施されている。


羽黒山厳島神社の創建は勉強不足の為に不詳、当時は弁天堂と称し仏教色の強い御堂でした。名称から察すると七福神の一柱弁財天が本尊として祀られていたと思われます。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が廃されると、元々、弁財天と宗像三女神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)の1柱である市杵島姫命は同じ女神で水神だった事から神仏習合時代の本地垂迹(八百万の神々は仏に姿を変え日本に降臨したという信仰)では同神とされ、市杵島姫命は世界遺産でも知られる厳島神社(広島県廿日市市)の祭神だった事から厳島神社になったと思われます。又、厳島神社は津速魂神社と合祀しているようですが、祭神と思われる津速魂命が何故勧請されたのかは不詳。社殿は旧弁天堂を神社として改修したもので、宝形造、銅板葺、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、外壁は真壁造、板張素地、正面の開口部は仏教色の強い花頭窓が残され、向拝の向って右側の柱には登り龍、左側の柱には降り龍、向拝木鼻には象と獅子、欄間には龍の精緻な彫刻が施されています。羽黒山厳島神社社殿は出羽三山の神仏混合当時の遺構として貴重な事から平成17年(2005)に鶴岡市指定文化財に指定されています。
鏡池
池底からは500面以上の鏡が見つかっている。池中納鏡の思想が古来からあり、古いものでは平安時代の鏡が見つかっているとのこと。そうなのかもしれないが、季節から水草が繁茂しすぎていて、池の様子はよく確かめることが出来なかった。水草は葉の形状からコウホネではないかと思う。
平安時代から江戸時代の銅鏡190面は古代の水霊崇拝の遺構で意匠的にも優れていて、大変貴重な事から、昭和25年(1950)に国指定重要文化財に指定された。

東西38m南北28mの楕円形のこの御池は御本殿の御手洗池であり、年間を通しほとんど水位が変わらず、神秘な御池として古くより多くの信仰をあつめ、また羽黒信仰の中心でもあった。古書に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませており、この池を神霊そのものと考え篤い信仰の捧げられた神秘な御池であり、古来より多くの人々により奉納された、銅鏡が埋納されているので鏡池という。
東照社





寛永18年(1641)、第50代天宥別当は徳川幕府の宗教顧問である東叡山の天海僧正の弟子となり、羽黒一山を天台宗に改宗する条件の一つに、東照権現の羽黒山勧請の周旋を申し出た。
天海僧正は鶴岡城主酒井忠勝に働きかけ、天保2年(1645)藩主は社殿を寄進した。
爾来、歴代の藩主の崇敬庇護のもと維持されてきた。
明治時代に東照宮は東照社と改められ、現在の社殿(3間5間)は昭和55年(1980)に解体復元したものである。天宥別当の勧請のねらいは、東照権現を山中に祀ることによって山威を高め、この頃緊張の度を加えつつあった庄内藩との関係を円滑なものにすることにあった。
霊祭殿


出羽三山は往古より祖霊安鎮のお山とされ、深い信仰をあつめており、ご先祖の御霊を供養する風習が現在も盛んに行われている。単層入母屋千鳥破風五間社造りの本殿に次ぐ、荘厳な建物で昭和58年に再建されたものである。
神輿社
羽黒山・月山・湯殿山の散々の神輿が収納されているそうだ。


俳聖芭蕉像と石碑
松尾芭蕉は、当然の事ながらこの出羽三山にもやってきた。そして、阿闍梨に拝謁し、その翌日には、句会を開催したそうだ。顛末は、『奥の細道』に記されている通り。
芭蕉翁の石像はこんなものだろうと思う。石碑の方は、半分程度しか判読できなかった。帰宅してから、画像を拡大し、WEBの検索も行って、やっと書いてある内容がわかった。


涼しさやほの三日月の羽黒山
かたられぬゆどのにぬらす袂かな
加多羅例努湯登廼仁奴良須當毛東迦那
雲の峯いくつ崩れて月の山
なお、下記の句碑は羽黒山の南谷別院跡にあるそうだ。画像はPDFを借用した。

有難や雪をかほらす南谷
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羽黒
六月三日、羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍梨に謁(えつ)す。南谷の別院に舎(やど)して、憐愍(れんみん)の情こまやかにあるじせらる。
四日、本坊にをゐて俳諧興行。
有難(ありがた)や雪をかほらす南谷
五日、権現に詣。当山開闢(かいびゃく)能除大師(のうじょだいし)は、いづれの代(よ)の人と云事を知らず。延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。出羽といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記(ふどき)に侍とやらん。月山、湯殿を合て三山とす。当寺武江東叡(ぶこうとうえい)に属して、天台止観(てんだいしかん) の月明らかに、円頓融通(えんどんゆづう)の法(のり)の灯(ともしび)かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴(たっとび)且(かつ)恐る。繁栄長(とこしなえ)にして、めで度(たき)御山と謂つべし。