九品仏浄真寺(1)
九品仏駅
自由が丘駅から歩いてもそんなに遠くないが、道を知らない方は、こちらの駅で乗降したほうが無難だろう。改札を出た直前を道路が走り、そこが踏切になっているのだが、ちょっと変わった眺めだ。

参道
スイーツ屋さん、お蕎麦屋さんなどの誘惑に負けず、ともかくも九品仏浄真寺拝観を優先させた。


『禁銃猟 警視廳』か。この辺りでも銃による猟が行われていたんだ。それくらい鳥獣が存在したのだろう。『廳』の文字も時代を感じさせる。明治32年のことか。う~~ん。


総門が見えてきた


総門
扁額には『般舟場(はんじゅじょう)』と書かれてある。常に行道念仏して現前に諸仏を見奉る般舟三昧する道場であり、参拝者に願往生の心を自然に発さんが為に書かれたものであるそうだ。おわかりいただけだであろうか。

重要な情報
次回の『お面かぶり』は、来年の8月16日ではなく、5月5日に変更になったようだ。9ヶ月も覚えていられるかなあ。3年に一度の行事だから、見逃したら、大後悔必至だろう。直前まで日程変更に気付かずにいる方が少なくないのだろうなあ。

前回の『お面かぶり』の様子

総門を潜った辺り
その先に山門があり、本堂があるのが普通だろうが、ここはそうはなっていない。右手には閻魔堂があるだけ。

閻魔堂
後述するが、死んだ時に9つのタイプに類別されるそうだ。だが、それもこれも、この閻魔堂で引っかからなければの話だ。ご同輩、その自信はお有りだろうか?

何故だか、とても怖く感じた。今からでも改心すれば、認めてくれるのだろうか。


参道を左に折れるが、その前に右手に折れて東門を見ておく
東門
東門からは、仁王門まではまっすぐ進むことができる。扁額には何と書かれているのだろうか。『釈迦如来仏法…』と書かれてあるのかなあ。


仁王門(紫雲楼) (世田谷区指定文化財)
楼上には阿弥陀如来と二十五菩薩像が安置されているが、この日は前の扉が開けられておらず、確認できなかった。それが残念だったが、仕方がない。それにしても、この風格のある仁王門(紫雲楼)が世田谷区指定文化財にとどまるとは。寛政5年(1793)の建立で223年前のものなのだが、…。








仁王門
重厚荘重なる仁王門(山門)は別名「紫雲楼(しうんろう)」とも呼ばれ寛政5年(1793)の建立である。
一対の仁王像、楼上に阿弥陀如来と二十五菩薩像が安置されているほか、風神・雷神の像も立って、寺域全体の安全が意図されている。
紫雲楼(仁王門)楼上の二十五菩薩
当山に参詣される人々は、この楼上に安置してある阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられて、三仏堂へと足を運ぶことになる。
すなわち紫雲の門より内は荘厳の浄土(彼岸)であることを示している。
この楼門は寛政年間の建立である。
当山の伝統相続行事である「二十五菩薩来迎会(らいごうえ)」(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この楼上の二十五菩薩は、来迎の真髄を示現していることになる。
歴史
浄真寺の地は、もともとは世田谷吉良氏系の奥沢城であった。小田原征伐後同城は廃城となったが、寛文5年(1675年)に当地の名主七左衛門が寺地として貰い受け、延宝6年(1678年)、珂碩(かせき)が同地に浄真寺を開山した。
「九品仏」の由来
広い境内の本堂の対面に3つの阿弥陀堂があり、それぞれに3体合計9体のそれぞれ印相の異なった阿弥陀如来像が安置されている。この9体はそれぞれ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生という、浄土教における極楽往生の9つの階層を表しており、これらをあわせて九品(あるいは九品往生)という。この九品の仏から、浄真寺は通称「九品仏」と呼ばれている。
このような九体阿弥陀は、他に京都の浄瑠璃寺にも見られる。
これは「観無量寿経」に説く九品往生(くほんおうじょう)の思想に基づくものである。極楽往生の仕方には、信仰の篤い者から極悪人まで9通りの段階があるとされ、「上品上生」(じょうぼんじょうしょう)から始まって「上品中生」「上品下生」「中品上生」「中品中生」「中品下生」「下品上生」「下品中生」「下品下生」に至る。浄真寺の九品仏の場合、阿弥陀如来の印相の内、定印を「上生印」、説法印を「中生印」、来迎印を「下生印」とし、親指と人差し指(中指、薬指)を接するものをそれぞれ「上品」「中品」「下品」に充てる。なお、九品往生を9通りの印相で表す教義的根拠は明確でなく、日本において近世になってから考え出されたもののようである。