またもや日本民家園に行ってきた(11)
江戸時代初期の貞享四年(1687年)というから、329年前の家屋。建立年時の明らかな民家としては、東日本では茨城県出島村の椎名家住宅延宝2年(1674年)に次いで古いそうだ。それも13年違いなだけ。
この日本民家園には、同じく国指定の重要文化財である『伊藤家住宅』がある。伊藤家住宅には、建築年代を示す資料はないが、17世紀末から18世紀初めごろの建築と推定されているそうだ。旧所在地も、秦野市と川崎市麻生区と近接しているし、竹簀子の床があるのも同じ。どこが違うのか、考える価値がありそうだ。
間取り

外観
濡れ縁が用意されているのが目立つ



前庭
蕎麦が植えられてあった。その昔も、同じようなことをしていたのかもしれない。


家屋内部
ヒロマ
竹簀の子の床になっているのがお分かりいただけるだろうか。長い時間座っていると、竹が当たって痛いなどの不都合も、冬季に隙間風が吹き込み放題とかいう不都合があったのだと思う。なのだが、端には板敷きもあり、決して貧乏だからそういうふうにしていたわけでも無さそうだ。






ダイドコロ
普通は土間と呼ばれる部分。分棟型住宅以外では、この部分の広さが突出している感じだ。竈はヒロマと近接しているので、いろいろと食事の支度がやりやすかっただろうし、夏季などは囲炉裏を燃やす代わりにもなったのではないかと思う。


オク
いわゆる応接間だ。仏壇があり、畳敷き。床の間もある。


ヘヤ
今で言う寝室だが、こちらも畳敷き。押し入れもある。寝室に畳が敷いてあるのは、民家園でも殆ど無い。かなりの贅沢仕様と見た。

貞享四年(1687年)の墨書が残る古民家
この建物で特筆されるのは、建築年代がはっきりしていることです。加えて、建築としても非常に優れており、日本で最も重要な民家の一つといえます。建築年代は、柱の先端に墨記されていました。これを墨書といい、理兵衛という大工の棟梁の名前も明らかになっています。
日常生活の場であるヒロマは、竹簀子と板の間を使い分けています。竹簀子には必要に応じてムシロを敷きました。上手のオク(正座敷)には床の間が付き、ヘヤ(寝室)は畳敷で押入も備えています。このほか、ヒロマとオクに濡縁が付くなど、同じようなつくりの旧伊藤家住宅に比べ、発達した様子を示しています。