またもや日本民家園に行ってきた(10)
分棟の雨樋は作田家でも見られたが、あちらは、移築時に当初のスタイルの復元したが、雨樋の資料が残っていなかったため、こちらの太田家住宅のものを模した。ということで、オリジナルはこちらのほうだ。
また、ここはロケット花火による火災が発生した。普通の家ならば全焼に近い燃え方だったが、うまく復元している。今でも、一部に痕跡が残る。
個人的には、国指定の重要文化財の扱いを返上しなけれないけないのではと思うのだが、そういう動きはないようだ。指定返上は、文化財所有者へのダメージが大きいのかなあ。
間取り
分棟型だけあって、ちょっと変則的な間取りになっている

外観


家屋内部
大戸口付近
大戸の上に掛けてあるのは、慶応4年に明治政府が出した「五榜の掲示」の一枚

第一札
定
一 人タルモノ五倫ノ道ヲ正シクスヘキ事
一 鰥寡孤獨癈疾ノモノヲ憫ムヘキ事
一 人ヲ殺シ家ヲ焼キ財ヲ盗ム等ノ惡業アル間敷事
慶應四年三月 太政官
この第三札には誠にけしからん文言があった。諸外国からの猛抗議を受けて、撤廃したそうだが、新政府のキリシタン禁教を受け継いだ。勿論、ここには掲示されていなかったが。
第三札
定
一 切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ若不審ナル者有之ハ其筋之役所ヘ可申出御褒美可被下事
慶應四年三月 太政官
ドマ
相当に広い。家屋の半分以上を占める。雑穀などを収穫した後の後処理などをここで行っていたようだ。

雨樋は物々しいものだ。こんな風に二つの棟の境目に流れ落ちてくる水分を受ける位置に括りつけられていた。そして、広間との取り合いもかなり変型のものだ。

竈はかなり傷んでいるなあ。どうしてこんなことになったのだろうか。

火災の痕跡
平成2年7月29日、生田緑地内で打ち上げられた花火が屋根に落下し、主屋のヘヤを中心に焼損した。焼失してしまったものについては、新材でそれらしく見せているようだ。

こちらは何とも痛ましい限り。まだ、使えるとの判断で残したようだ。

これは高機(進化した機織り機)だそうだ

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家の中に雨どいのある二つ屋根の家
この建物は二棟が軒を接して建つ、分棟型の民家です。大戸口を入ると広い空間がひろがっています。ドマの右手がウマヤ、左手が主屋です。主屋は日常生活の場であるヒロマ、寝室であるヘヤ、そして畳敷きのザシキに分かれます。ザシキは正式な部屋で、この部屋に客人が訪れる際には土庇が出入口となりました。
広い土間では、雑穀などの農作業も行われていました。
なおこの家には、突出する馬屋や囲炉裏の位置など、南部地方の曲屋と類似する点があります。江戸時代後期には茨城県や栃木県でも曲屋が作られており、この家はその影響を受けた分棟型といえます。