皇居東御苑(2)
皇居内にある道場。扁額は有栖川宮熾仁親王が揮毫。
皇宮警察本部の道場として使用されているようだ。剣道の稽古中なのか、非常に威勢のよい掛け声が聞こえてきた。聞こえてくる声は剣道ばかり。柔道はどうした。柔道の練習日ではないのかな?オリンピック惨敗で意気消沈?最近、皇宮警察の選手活躍の報道は久しくないなあ。


同心番所・大手三の門跡
大手三の門の第一の門を過ぎた枡形の中にある。ここで御三家以外は籠を降ろされて、検問を受けたのか。江戸城は枡形の備えが無いところが無い感じだ。




江戸時代後期の下乗門…日本城郭協会「日本城郭全集 第十巻」より

大手三の門は、大手門から三の丸尚蔵館の前を過ぎた正面のところにあり内側には同心番所があります。この門も本来は枡形門で、両側は水堀でした。
ここを駕籠に乗ったまま通ることができたのは、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家だけで、それ以外の大名はここで降ろされ、検問を受けました。このことから、この門は下乗門とも呼ばれました。
百人番所
本丸と二の丸とへ通じる要所、大手三の門の前に設けられた番所。下の解説の通り、徳川家と強いつながりのあった忍び出身の強そうな奴らが詰めていたようだ。御庭番などの巣窟だったのだろうか?今でも警備は十分厳しいが、当時の厳しさは想像を絶するものだったのだろう。廿五騎組って何者なんだろう?




大手門から大手三の門を抜けたところの左手にあるのが、長さ50メートルを超える百人番所です。大手三の門を守衛した江戸城本丸御殿最大の検問所でした。鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の4組が交代で詰めていました。各組とも与力20人、同心100人が配置され、昼夜を問わず警護に当たりました。
同心が常時100人詰めていたところから百人番所と呼ばれるようになったといわれています。
大番所
前の坂を上ったところが本丸の入口で、中雀門があった。本当に最後の守りの砦だったんだ。同心番所、百人番所を潜り抜けた強者にどう対処したのだろうか?確かに他よりは立派な佇まいだ。


大手三の門を抜けると左手に百人番所、右手に中之門があります。中之門の石垣は、丁寧に加工された大形の石材が隙間なく積む「切込みはぎ」と呼ばれる技法で積まれています。また、石垣に使われているのは、瀬戸内海沿岸から運ばれた白い花崗岩で、西国大名から献上されたと考えられます。こうした石垣は、大名の登城路や天守台主要な部分だけにみられるものです。
中之門石垣は江戸城の中でも最大級の巨石(35t前後)が使用され、目地がほとんど無い、整層・布積みの石垣です。明暦4年(1658)に普請され、元禄16年(1703)地震で倒壊した石垣を修復し、その後約300年の間に、石材の移動による目地の開き・孕み、荷重や風化による破損・剥離等が発生していたため、平成17年(2005)から平成19年(2007)まで20ヶ月かけて解体・修復工事が行われました。三次元レーザ測量から築石一石ごとの立体モデルを作成し、コンピュータ画面上で、石垣創建当時の線形を推定するなどの修復工事の概要が、中之門跡に詳しく表示されています。 また、中之門石垣解体に伴い、築石同士を連結する銅製の「契り(ちぎり)」や築石の据付に使用した銅製・鉄製の「敷金」など様々な遺物が出土しました。
「番所」とは、警備の詰所のことです。現在、百人番所、同心番所とこの大番所の三つが残っています。大番所は大手中之門の内側に設けられ、他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていたといわれています。江戸城本丸へは最後の番所であり、警備上の役割はきわめて重要であったと考えられています。
大番所は再建されたものですが、背後の15段の射撃用の石段も古く風格のある立派な建物です。