梅の季節の三渓園(12)
まさか、三重塔ばかりでなく本堂までが、この三渓園にやってくるとは、さすがの原三渓氏も思いもつかなかったことだろう。
34年もの長い期間、解体格納された挙句、遂には、自主再建を断念し、三渓園に寄贈されたのだから。それから5年がかりで、移築・保存作業が行われ、1988年に中世密教寺院の姿がよみがえったのか。う~~ん。








室町時代初期の建築。上記三重塔があった燈明寺の本堂で、1948年まで京都府加茂町(現木津川市)にあったが、同年の台風で大破し、長年解体格納されていた。1982年三溪園に移築。
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横笛庵
『旧東慶寺仏殿』と『横笛庵』とがすぐ近くに並ぶように建っている。片や『縁切り』で、片や『縁結び』にゆかりがある。ちょっと皮肉だったかもしれない。
戦火で焼失してしまった『横笛の像』は、時頼から寄せられた千束の恋文をもって自ら作ったといわれる自身の像といわれるのか。そのとおりだったとすると、平安時代末期ということになる。そちらの焼失の方が、文化的には惜しい話かもしれない。
この横笛像が、かつて「縁結びの像」として知られた。悲恋が何故縁結びに転化していったのか不思議だ。


建築は明治41(1908)年。奈良・法華寺からの移築ともいわれるが、由緒の詳細は不明。平家物語に登場する女性・横笛の像が内部に置かれた(戦時中に消失)ことから、この名がある。横笛は、高倉天皇の中宮・建礼門院(平清盛の娘・徳子)に仕えた女性で、平家物語に清盛の従者・斉藤時頼(滝口入道)との悲恋が語られている。内部にあった像は、この横笛が時頼から寄せられた千束の恋文をもって自ら作ったといわれる自身の像といわれ、かつて「縁結びの像」として知られた。
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その他
『かんかばし』
時期が到来すれば、蛍が舞うそうだ。残念ながらその季節の夕べに行ったことがなく、当然見たことがない。

虚子句碑
『鴨の嘴よりたらたらと春の泥』…まさに今頃に読まれた句のようだ。それにしても達筆だなあ。


鳥さん






薹がたった
とまではいかないかな

そのうちに池の傍らに花菖蒲が花を咲かせ、蛍が舞い、やがて、紅葉が美しく彩る。そんな風に四季を刻んでいくことなのだろう。計算されつくした素敵な庭園だ。
以上で『梅の季節の三渓園』シリーズは終了です。最後までご覧いただきありがとうございました。