横浜山手界隈を歩く(3)
昭和42年(1967年)明治100年を記念して建てられた建物。周囲の雰囲気に合わせて建てられた比較的新しい建物だ。今はカフェとレストランになっている。何回か入ったことがあるが、今回はこのすぐ先の『えの木てい 本店』に行くつもりでいたので、パスした。

このガス灯は本物。ガス灯が点灯していると、陽炎がたっているので、すぐわかる。


山手資料館
明治42年に建造された、横浜市内に残る唯一の「和洋併設型住宅」木造西洋館。こんな狭小住宅が当時もあったのかと驚く。この西洋館のみ横浜市の所有ではなく、入館料が必要。
館内には、チャールズ・ワーグマンのポンチ絵や、ジェラールの西洋瓦等、文明開化当時をしのばせる展示品など、居留地だった頃から関東大震災までの横浜や山手に関する資料を展示しています。横浜市の歴史的建造物。

このガス灯も本物。光量は知れたものだが、独特の雰囲気が感じられよう。庭先までの立ち入りは無料。



横浜山手聖公会
1931年(昭和6年)、現在の礼拝堂竣工。その後も、空襲や放火で2度内部を焼失した。修羅場を潜り抜けてきた建物のようだ。
横浜山手聖公会は、神奈川県横浜市中区にある日本聖公会の教会堂である。プロテスタント・日本聖公会横浜教区に属する教会で、外形は大谷石を使ったノルマン様式の聖堂をもつ。

公衆電話ボックス
この地の雰囲気に合わせて後年設置されたものだろう。いまでは、公衆電話ボックスそのものをあまり見かけなくなった。時代の移り変わりを象徴している。

山手234番館
外国人向けの共同住宅。朝香吉蔵の設計が良かったのか、今に至るも陳腐化していないのはさすがだ。
それぞれの階に2つの住戸、あわせて4住戸だったのか。関東大震災後の住宅事情の良くない時期だったので、そのことを承知しているだろう外国人が何とか矛を収めて我慢できるぎりぎりの広さの共同住宅だったかもしれない。
エリスマン邸の斜め前、山手本通沿いに建つ山手234番館は、昭和2(1927)年頃外国人向けの共同住宅(アパートメントハウス)として、現在の敷地に民間業者によって建設されました。関東大震災により横浜を離れた外国人に戻ってもらうための復興事業の一つとして建てられ、設計者は、隣接する山手89-6番館(現えの木てい)と同じ朝香吉蔵です。
建設当時の施設は、4つの同一形式の住戸が、中央部分の玄関ポーチを挟んで対称的に向かい合い、上下に重なる構成をもっていました。3LDKの間取りは、合理的かつコンパクトにまとめられています。また、洋風住宅の標準的な要素である上げ下げ窓や鎧戸、煙突なども簡素な仕様で採用され、震災後の洋風住宅の意匠の典型といえます。
建築後、第2次世界大戦後の米軍による接収などを経て、昭和50年代頃までアパートメントとして使用されていましたが、平成元(1989)年に横浜市が歴史的景観の保全を目的に取得しました。平成9(1997)年から保全改修工事を行なうとともに、平成11(1999)年から一般公開しています。1階は再現された居間を中心に山手地区の洋館のパネル展示、2階は貸し出しスペースとして、ギャラリー展示や会議等にご利用いただけます。


バレンタインデーの前だったので、その飾りつけがなされていた。バレンタイン装飾 『白ネコさん家のバレンタインパーティー』という女性が喜びそうな飾りつけだった。








我が家にもあったSINGERのミシン。これがあるだけで、レトロな雰囲気が出るなあ。さすがの存在感だ。


2階では女流写真家EMIKO NAKAI氏の『お伽草子』なる個展が開催されていた。印画紙などを使用せずに和紙にプリントアウトした独特の作品だった。力作ぞろいのように感じた。



