兵庫県内を見て回る(3)
出石城跡
もともとは、標高321mの有子山山頂を天守とする有子山城があったそうだ。登城がさぞかし大変だったことだろうと思ったのだが、1604年(慶長9)、小出吉英により有子山城の山上の丸および天守部分が廃され、有子山城山麓の郭および館のみを出石城と命名し幕府に居城として届けた。それにともない平地に、堀で囲まれた三の丸が築かれ、下郭、二の丸、本丸、稲荷丸が階段状に築かれたそうだ。
そうか、途中から形式よりも実利を重視したんだ。山麓の郭でも十分、天守閣の代用となる。
以下はfree画像2点
お城の見取り図

山上の本丸があった、その跡

一部写真にレンズフードの問題でケラレが出ている。この旅行後、正しいレンズフードに交換した。今回は我慢して見ていただきたい。
登城橋

登城門

本丸西隅櫓が見えてきた
こじんまりとした櫓だ。手前に石垣が積んである一画は二の丸跡。上の見取り図の通り、かつての二の丸はもっと広かった。


本丸跡


本丸は思ったよりも狭い。本丸御殿も相応の大きさだったのだろう。考えてみれば、江戸城の本丸だってそう広くはないのだから、藩の格式相応なのかもしれないが。


本丸西隅櫓
建物の内部に立入ることはできないようだ。東隅櫓と西隅櫓とは1968年(昭和43年)に復元されたそうだ。これが有ると無いとでは景観がまるで違う。


感応殿
この社殿は、感応殿といい、出石藩主仙石氏の祖権兵衛秀久公を祀っています。公は美濃(岐阜県)の人で、豊臣秀吉に仕えて功があり洲本、高松の城主となり一時勘気を受けて浪人しましたが、小田原攻めで奮戦し小諸城主に返り咲きました。その豪勇のほどは大盗賊石川五右衛門を捕らえた豪傑として伝説化されています。仙石氏は、公のあと子の忠政が信州上田に移り玄孫政明が宝永三年(一七〇六)に出石に移封されて五万八千石を領し以来廃藩まで七代百六十三年間続きました。明治に入って旧家臣らによって本丸跡に公を祀る感応殿が建立され今日に至っています。以後町の人々は本丸を権兵衛さんと愛称をもって呼び、例祭は五月の祥月命日に行われています。

本丸跡からの眺め
ここからの眺めはさほど良くない。大変でも、一段上にある曲輪稲荷郭に上った方が眺望は遥かに良い。

東隅櫓

曲輪稲荷郭
本丸を見下ろすような形になっている。藩主は気にしなかったものなのだろうか、とこちらが気になってしまった。次回そちらの様子を取り上げる。
