国分寺市内の国分寺崖線に沿って歩いた(7)
再利用の計画が起きては、その動きを阻止する歴史を繰り返してきたようである。ということでまだ、武蔵国分寺跡が残っているのだ。それにつけても、おおよそ600年も存在し続けた武蔵国分寺が焼失してしまったのは何とも惜しいことだった。
武蔵国分寺跡案内図
武蔵国分寺跡案内図

武蔵国分寺跡位置関係図
雪の印のようなものが湧水源を示しています。国分尼寺跡辺りも含めて結構あります。

講堂
実際に敷地に立ってみると、かなり広い敷地だ。よく更地にすると、こんなものかと驚くのが常だが、それでもかなりの広さに感じるということは、建物が実際にあれば、相当に大きく感じたことだろう。




金堂
此処が金堂の跡かなあ




この看板は?

日本最大の寺院であった武蔵国分寺
1333年(元弘3年)新田義貞は上野国新田庄で鎌倉幕府討伐の兵を起こします、武蔵国久米川、小手指原で幕府軍を破った義貞は分倍川原にて援軍あわせて10万余の軍勢と成った幕府軍と戦い大敗して堀金(埼玉県狭山市)まで後退し、その際に武蔵国分寺に火をかけて焼き払ってしまいます。
8世紀半ばから大凡600年間続いた寺院は此処に全てを消失してしまうのです。
さて消失してしまった武蔵国分寺ですが如何なる寺院であったのでしょうか?
国分寺とは皆さん御承知の通り奈良期、8世紀の頃に聖武天皇により全国の60余ヶ国に国営寺院を配置する様に命じられて建てられた寺です。武蔵国では武蔵国府(東京都府中市)から北へ2kmの地点(東京都国分寺市)が選ばれました。
当時、武蔵国では蝦夷との対立関係から国府に近く、尚且つその対立関係の沈静化を願い寺院の規模は他国分寺より大きく築かれ、東西900m、南北550mと本山奈良東大寺と並ぶ国内最大級の寺でした、その内部は中心の伽藍から東に七重の塔が聳え、西に国分寺の尼寺が在り、尼寺と中心の伽藍の間に奈良期の官道、東山道が通されていました。
真言宗豊山派国分寺(2)
仁王門
国分寺墓地の先に階段がある。そこを上ると仁王門に到達する。日頃は訪れる人も殆ど居ないようで、説明書きなどを読んでいたら、たっぷりやぶ蚊に刺されてしまった。



薬師堂
仁王門からさらに階段を上ると、薬師堂が見えてくる。建物自体は国分寺市指定文化財に過ぎないが、中に鎮座まします『木造薬師如来坐像』は、国指定重要文化財だ。大将3年に指定されているとのことなので、最近のインフレ指定のものではなさそうだ。










本村八幡神社
更に隣り合うようにもう一つ階段があり、上ってみた。国分寺と隣接している本村八幡神社のようだ。境内には、「土師竪穴住居跡」の案内板が立っているようだ。夏バテで体調が全く戻っていない私には、、もう見て回る気力が残っていなかった。
国分寺跡の発掘調査に際して、竪穴住居跡が見つかったのか。縄文人が生活していたんだ。よく見ておくのだった。



都立武蔵国分寺公園
やっと崖線の上部まで上ってきた。此処が、この近隣の湧水源の供給水源になっているそうだ。もう此処を見て回る元気は残っておらず、撤収と相成った。


以上で、『国分寺市内の国分寺崖線に沿って歩いた』を終了します。最後までご覧頂き有難うございました。