何度目かの川崎市立日本民家園(8)
異様に広い土間がある家屋だった。分棟型ではあるが、当初の土間はそんなに広いものではなかったが、それを建て替えて広くしたようだ。そんなに農作業を屋内で行う必要があったのだろうか。
以前も書いたと思うが、平成2年7月29日、生田緑地内で打ち上げられた花火がこの家屋の屋根に落下し、主屋のヘヤを中心に焼損した大変な事故があった。復旧修理工事が行われ、平成4年10月31日に竣工した。
このような大規模な修復工事を施さなければいけなかったにもかかわらず、『国指定重要文化財』の指定を返上しなくても構わなかったのだろうか。根津神社と同じようなものかな。
外観
左奥にあるザシキが正式な部屋で、この部屋に客人が訪れる際には土庇が出入口となったとのこと。大戸口は、今で言う勝手口ということになろうか。


確かに分棟型なんだ。繋ぎ目に垂れてくる雨水の始末が重要問題だったとよく分かる。飛んできた落ち葉などが詰まるとえらいことになるはずだ。

屋内を貫く雨樋の露出部分が、かなり朽ちてきている。定期的に交換する必要があったのだろうか。

屋内





この道具はなんだろうか。ラベルには『スルス』と記載されていた。『摺臼』というものかなあ。



子どもたちが来たら、プレゼントしたり、作り方を教えたりするのだろうか。きれいなものだ。





家の中にある雨どい
作田家住宅にも存在した。分棟型の場合は、こうした仕掛けは不可欠だと思うが、移築の際、付属のパーツは完全に持ってくることが出来たのだろうか。多分、一番朽ちていただろう付属品なので、持参できずに来たのかもしれない。元のやり方をどこまで考慮したのだろうか。全く同じ形式だったのは、たまたまだったのだろうか?

国指定重要文化財
旧所在地:茨城県笠間市片庭
建物区分:農家(名主の家)、分棟型
構造形式:主屋=寄棟造、茅葺、桁行9.6m、梁行8.3m/土間=寄棟造、妻入、茅葺、桁行10.0m、梁行8.3m
建築年代:主屋=17世紀後期/土間=18世紀後期
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家の中に雨どいのある二つ屋根の家
この建物は二棟が軒を接して建つ、分棟型(ぶんとうがた)の民家です。大戸口を入ると広い空間がひろがっています。ドマの右手がウマヤ、左手が主屋です。主屋は日常生活の場であるヒロマ、寝室であるヘヤ、そして畳敷きのザシキに分かれます。ザシキは正式な部屋で、この部屋に客人が訪れる際には土庇(どびさし)が出入口となりました。
広い土間では、雑穀などの農作業も行われていました。
なおこの家には、突出する馬屋や囲炉裏の位置など、南部地方の曲屋と類似する点があります。江戸時代後期には茨城県や栃木県でも曲屋が作られており、この家はその影響を受けた分棟型といえます。
見どころポイント!
家の中に雨どいがある分棟型民家です。といが詰まると家の中に雨水があふれました。
大戸の上に掛けてあるのは、慶応4年に明治政府が出した「五榜の掲示」の一枚です。